社会の反動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/05 04:17 UTC 版)
「プルーデンス・クランドル」の記事における「社会の反動」の解説
カンタベリの市民たちは最初、学校に抗議したが、のちに寄り合いを開いて「この厄介ごとを回避できる効果的な方法あるいは迅速にこれを排除できるような方法を編み出し、適用すること」を話し合った。抗議ではクランドルの意思が揺るがなかったため、手段は次第にエスカレートしていき、警告、脅迫、ついには学校に対しての暴力行為にまで至った。クランドルは地元の強い反対に直面し、彼女を中傷する者たちにはこれを撤回する気持ちは毛頭なかった。クランドルと地域社会との対立はいまや「カンタベリ・アフェア」「クランドル・アフェア」と呼ばれ、北部諸州を揺るがす社会問題となった。 1833年5月24日に、コネチカット州立法府は「黒人法」を通過させた。この法律は、町の許可なしに州外から黒人の学生を学校に入学させることを禁止する条項を含んでいた。7月にクランドルは逮捕され、州立刑務所に一晩入れられたのちに、保釈金と引き換えに裁判までの間、解放されることとなった。 黒人法を盾に取って、町の人々はクランドルや学校の生徒たちに一切の品物を売らないことにした。店を閉じて集会所も閉めてしまった。駅馬車の馭者は彼女らのところへ物を運ぶことを拒否したし、町の医者でさえも彼らの求めに応じようとしなかった。さらにひどいことに町の人々は、学校で唯一、水を手に入れられる場所であった井戸に動物の糞便を投げ入れて汚染させたうえに、クランドルがよそから水をもらってくることもできないようにした。もはやクランドルが学校をやっていくのは難しくなっていたが、それでも彼女は若い生徒たちに授業を続けた。そしてそのことは怒れるコミュニティに対して、火に油を注ぐことになった。 生徒たちもまた、苦しんだ。ある17歳の生徒、アンナ・エリザ・ハモンドは逮捕までされてしまったが、地元の奴隷制廃止論者のサミュエル・J・メイの援助により寄付で集められた保釈金10,000ドルを支払うことができた。 メイのクランドルへの支援に対して、コネチカット州の政治家、アンドリュー・T・ジャドソン(英語版)は、次のように主張した。 メイ殿、我々は、カンタベリのあの学校の設立に対して、単に反対するだけではないのです。我が州のどこにもあんな学校が設立されるようなことがあってはならんと考えております。有色人種は我々の国での卑しい身分から身を立てるなんてことはできっこないし、そうすべきでもないのです。彼らは劣等人種ですぞ、白人と同じだなんて言ってはならんし、そう考えるべきでもないのです。 — Andrew T. Judson、Some recollections of our antislavery conflict からの抜粋
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