真島が関係した製紙会社各社のその後と大王子製紙
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蓬莱社製紙部 真島が23歳で初めて製紙にかかわった会社。のちに真島自身が所有する会社となり一時は景気も良かったがやがて経営難となり、1882年(明治15年)8月住友へ売渡し岡本健三郎を社長に大阪製紙所に変わる。大阪製紙所は1883年(明治16年)12月近江商人下郷傳平に所有が移り下郷製紙所のち中之島製紙株式会社となり、1920年(大正15年)中之島製紙は樺太工業に吸収合併され、樺太工業は1923年(昭和8年)、王子製紙に吸収合併される。 三田製紙所 有恒社、蓬莱社、抄紙会社とならび日本の製紙の黎明期の会社の一つ。中之島時代の真島の景気が良かった1880年(明治13年)、真島はこれを買収して真島第二製紙所とする。1882年(明治15年)には元の経営者林徳左衛門に売り戻すが三田製紙所はそのまま再開されることはなく終わる。 水谷紙料会社 真島が富士製紙株式会社に入る前、浪人時代に関わったとされる会社。1887年(明治20年)四日市製紙株式会社となり、1920年(大正9年)富士製紙に吸収合併される。富士製紙は1923年(昭和8年)、王子製紙に吸収合併される 富士製紙株式会社 1887年(明治20年)の創立時真島が監工(工場長)として参加した会社。王子製紙と日本一の製紙会社の座を争うが1923年(昭和8年)王子製紙に吸収合併される。 真島製紙所 1894年(明治27年)真島が創立した会社。1895年(明治28年)合資会社真島製紙所となり、出資を受け真島経営のまま1898年(明治31年)大阪製紙株式会社と改組する。1910年(明治43年)、真島の手を離れて野田吉兵衛経営の野田製紙所となるが、1915年(大正4年)野田は製紙所を富士製紙に譲渡する。真島が建てた工場は富士製紙神崎工場となるが富士製紙もまた1923年(昭和8年)、王子製紙に吸収合併される。現在の王子製紙神崎工場である。 前田製紙株式会社 1898年(明治31年)には著名な勧業奨励家の前田正名が北海道に紙パルプ製造事業を立ち上げることを考える。1899年(明治32年)、前田は富士製紙に技術援助を求めるが新工場を建設中の富士製紙には余裕がなく、真島襄一郎を紹介する。真島は話を聞き工場設計および技術指導ならば引き受けても良いと答え前田は工場建設の権限を真島に移譲する。真島は1899年(明治32年)秋には北海道を視察し部下の技師塚本文三郎に前田の新工場建設を任せる。しかし前田が用意できた資金は少なく塚本は予算不足に悩みながらも建設を進め、真島は女婿の幸次郎も派遣しこれを援助させ1901年(明治34年)5月めでたく開業する。真島はさらに技術者を送り込むが設備を改善するにも資金がなく良質なパルプの製造にはこぎつけなかった。前田はついに前田製紙としての事業をあきらめ、富士製紙の出資を求めて1902年(明治35年)北海紙料株式会社として組織変えする。1906年(明治39年)、北海紙料株式会社は富士製紙に買収される。
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