真の意志についてのクロウリーの記述
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/06/21 22:48 UTC 版)
「真の意志」の記事における「真の意志についてのクロウリーの記述」の解説
クロウリーのエッセイ「秘密会議」(ジェラール・オーモンという筆名で執筆、『師の心』 The Heart of the Master の序文となっている)の中でかれは、社会の正しい秩序を可能にするために、子どもの〈真の意志〉が誕生時か人生のできるだけ早期に発見されうるような技法が考案されるかもしれない(もとい、考案されるべき)ことを示唆している。 クロウリーの倫理論「義務」の中でかれは、〈真の意志〉を個人の〈本性〉と同一視した。この大文字の「本性」(ほんせい)は、初期グノーシス体系の「全き本性」と比較しえよう。それは個人的なダイモーンやアウゴエイデスを指すもうひとつの言葉であり、通常クロウリーが聖守護天使と呼ぶものである。(「全き本性」という言葉の用法についてはアンリ・コルバン(英語版)の『イランのスーフィズムにおける光の人』 Man of Light in Iranian Sufism を参照。) 「マスター・セリオンのメッセージ」(「二之書」)は〈真の意志〉の教義を描写しようとした重要な文書である。「二之書」は「ThIShARBの書」に言及し、個々の〈真の意志〉は個人の以前の生の結果であるとして、魂の転生の理論を示唆する。しかしここでもクロウリーは過去生の記憶の客観的妥当性を主張するまでには至らない。かれは目的を達成するための手段として「魔術的記憶」の開発を推奨している。これは志願者の能力と思い出した過去とを何らかの目的(意図、意味)に結びつけるものである。定義上、志願者の〈真の意志〉は志願者の本性に合致していなければならない。 「法の書解題」(「百五十之書」)の中でクロウリーは、〈真の意志〉を「部分的かつ一時的なことで満足せず、…〈目的〉に向かって断固として進む」意志と定義し、同じ一節でその「目的」を〈愛〉における自己破壊(自己の解消)と見なしている。
※この「真の意志についてのクロウリーの記述」の解説は、「真の意志」の解説の一部です。
「真の意志についてのクロウリーの記述」を含む「真の意志」の記事については、「真の意志」の概要を参照ください。
- 真の意志についてのクロウリーの記述のページへのリンク