白根金山の隆盛
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星川正甫による南部藩の史書『公国志』のうち「食貨志」では白根金山の盛況を記述している。『祐清私記』や「食貨志」によると、金山奉行の北十左衛門は、大阪をはじめ上方各地に問屋を定め、米代川を下して能代港に輸送し、金銀を上方と取引していたという。南部利直は駿府の徳川家康に領内産金のことを報告し白根金千枚、砂金50斤を献じ、『南部史要』では慶長17年に江戸南部邸の茶会で徳川秀忠に白根金50枚、駿馬2頭を献じたと記されている。「食貨志」では鹿角諸山の産金量は明らかでないが「其の数量り知るべからず」、「慶長十三年に至り益々夥しく産す」とあり、「公(利直)の世に至りてかく金貨の多く出ければ公私とも封内富饒にして天下に甲たり」と記されている。利直の子の南部重直の治世33年で鹿角金山は衰退期に入るが『南部史要』では重直の治世を評して「時に我藩鹿角の産金夥しく、富諸侯に冠たるを以て、公(重直)は衣服刀剣に綺麗を飾り都会を横行す」としている。 白根金山の金はおそらく一定の品質をもって他藩にも通用された。1614年(慶長19年)2月、秋田藩は入封以来の領内金銀山運用を、梅津政景を使者として駿府の徳川家康に上納した。運用金は102枚であったが、そのうち100枚は白根湊封付の金で、白根金は1枚40目8分であった。湊封というのは、土崎湊の天秤屋か吹屋が封包したものと考えられる。梅津政景はこの金を渋江政光から渡され、彼はこのことを梅津政景日記に記載している。
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