甲府道祖神祭礼
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甲府道祖神祭礼(こうふどうそじんさいれい)は、江戸時代の都市祭礼。江戸後期に甲斐国の甲府城下町で行われた小正月の道祖神祭礼で、城下の大通りを浮世絵が描かれた幕絵で飾る点を特色とする。別称に甲府道祖神祭り。
- ^ 甲府城下町について山梨県立博物館ホームページの「懐宝甲府絵図」(お楽しみ資料)を参照。なお、画面中央部が甲府城内城で、左右が南北、上下が東西(上側が西)。新府中は内城から南西部、方形の三ノ堀郭内に位置する。
- ^ 近世甲府城下町の成立・展開については『山梨県史』通史編3近世1、2、『甲府市史』通史編2近世など。
- ^ 甲府町年寄「酒田家御用留」『山梨県史』資料編9近世2(甲府町方)所載
- ^ 髙橋(2008)p.80
- ^ 『裏見寒話』は甲府勤番士野田成方の著作で、甲斐国に関する地誌や民俗などが記されている。『甲斐叢書』第六巻、以下、甲府道祖神祭礼に関する関係資料は『山梨県立博物館調査・研究報告3 歌川広重の甲州日記と甲府道祖神祭 調査研究報告書』(山梨県立博物館、2008)
- ^ 『日本九峰修行日記』は日向国佐土原の修験者である野田泉光院(野田成亮)が甲斐を廻国した際の記録で、泉光院は文化9年(1812年)に出立し日本全国を廻国した際の記録で、甲斐国へは文化12年(1815年)9月から翌文化13年まで滞在しており、下積翠寺村において正月を過ごし甲府道祖神祭礼を実見している。『日本庶民生活史料集成』第二巻に収録。
- ^ 歌川広重(1797 - 1858)は江戸の人気浮世絵師で、文政8年(1811年)頃から名所絵を描き始め、天保4年(1833年)には東海道五十三次を発表し人気絵師となっている。『甲州日記』は歌川広重の記した甲府滞在の記録で、天保12年4月部分の前半が「日々の記」、11月部分の後半が「心おほへ」として残されている。『山梨県立博物館調査・研究報告3 歌川広重の甲州日記と甲府道祖神祭 調査研究報告書』では全文を翻刻しているほか、脚注で髙橋修による詳細な考証も施している。
- ^ 甲府勤番支配宮本定正の著作。『日本都市生活史料集成』第五巻に収録
- ^ 来歴不明の安藤助五郎が記した記録。『甲斐叢書』第三巻に収録
- ^ なお、道祖神信仰に関する幕絵製作の事例としては山形県酒田市に存在しているが、これは道祖神への奉納という意味合いが強く、後述する甲府道祖神祭礼の性格とは異なる。
- ^ a b 髙橋(2008)p.81
- ^ 甲府城下の商家を一覧した『甲府買物独案内』(以下『甲買』)に拠れば緑町一丁目には茶商・書肆商の伊勢屋宗助、金物商の伊勢谷喜助が存在しているが、いずれが伊勢屋栄八を指すのかは不明。なお、伊勢屋宗助は嘉永7年に『甲買』を出版しており、歌舞伎関係の書籍を数多く扱うなど江戸とも日常的に取引し、文化人とも交流を持っている点が注目される。また、緑町は高札場が存在し甲州街道(城東通り)沿いの甲府城下中心地であった八日町に比して、一蓮寺寺内内に接する城下周縁部にあたり、『甲買』冒頭に掲載される「甲府繁盛之図」においては緑町界隈が誇張して描かれている点が指摘され、伊勢屋宗助は『甲買』の出版を通して緑町界隈の活性化を企図していたと指摘されているほか、『甲買』の出版も後述する甲府道祖神祭礼の企画と同様の気風によるものであったと考えられている。なお、『甲買』の資料的分析については髙橋修「『甲府買物独案内』との対話」『甲斐』116号、2008
- ^ 料理屋の観点から甲府城下の活況を論じたものに髙橋修「近世甲府城下料理屋論序説」『甲州食べもの紀行』山梨県立博物館、2008年がある。
- ^ 1936年(昭和11年)に山梨日日新聞社社長で郷土研究者の野口二郎により発見される。
- ^ 髙橋(2008・②)、p.80
- ^ 井澤(2008・③)、p.84
- ^ 井澤(2008・③)、p.85
- ^ a b c d e 『歌川広重の甲州日記と甲府道祖神祭』、p.91
- ^ a b c d e f 松田(2015)、p.42(29)
- ^ 髙橋(2008・②)、p.79
- ^ a b 松田(2015)、p.41(30)
- ^ 松田(2015)、pp.39(32) - p.43(28)
- ^ 松田(2015)、p.43(28)
- ^ 髙橋(2008・②)p.76-78
- ^ 髙橋(2008・②)p.77
- ^ 「諸国祭礼尽双六」は広重筆の日本各地の著名な祭礼を紹介する作で、甲斐においては甲府道祖神祭礼が選ばれ広重の手がけた「東都名所」と考えられる図像が描かれている。
- ^ 髙橋(2008・②)p.77-78
- ^ 髙橋(2008・②)p.78
- ^ 髙橋(2008・②)pp.77-80
- ^ a b 髙橋(2008・②)p.80
- ^ 「甲府上下町中人数改帳」「甲府緑町家持并借家軒別小間改帳」(ともに山梨県博所蔵)に拠る。
- ^ なお、『甲州日記』4月8日条には世話人として11名の名が記されており、いずれも表通りの富裕町人に比定されることから、これらの人物によって祭礼は運営され、幕絵も管理されていたと考えられている。髙橋(2008・②)p.30
- ^ 髙橋(2008・②)pp.79-80
- ^ 『DOME 84』2006年、p.25
- ^ 『裏見寒話』によれば八日町(甲府市中央五丁目)は「府中一のよき所」と記され、甲府城下町の経済的中心地であった。
- ^ 『甲府道祖神祭礼永代帳』(表題は『道祖神祝儀並に諸入用永代帳』、山梨県立博物館所蔵「甲州文庫」)は甲府八日町一丁目の勘定帳簿で、縦15.2センチメートル、横20.0センチメートルの横帳。表紙の記述から安永9年(1780年)の成立で、年ごとの道祖神祭礼に関する祝儀高と支出項目が記されている。
- ^ 年未詳・出版元未詳『甲州道祖神話』(山梨県博「甲州文庫」に写本が所蔵)、年未詳「道祖神祭礼旧式悪例改方に付願書」(ともに「甲州文庫」)
- ^ 髙橋(2009)p.5
- ^ 髙橋(2009)p.7
- ^ 髙橋(2009)p.15
- ^ 髙橋(2009)p.10
- ^ 髙橋(2009)p.17
- ^ 天保騒動は天保7年8月に発生した甲斐一国規模の百姓一揆。郡内地方に端を発した一揆勢は甲府盆地へ入ると無宿・悪党層に主導され騒動は激化し各地で打ちこわしを行い、甲府町方では8月23日に1000人余りの一揆勢が甲府代官井上十左衛門の手付・手代らが東方の山梨郡万力筋板垣村を、甲府勤番追手永見為儔(伊勢守)の手代が南方の中郡筋遠光寺村に防衛戦を固めるが突破され、上一条町や山田町、魚町、三日町、柳町、緑町において打ちこわしを行い、緑町の竹原田次郎兵衛宅には火を放っている。天保騒動について須田努「天保騒動」『県史』通4近世2、同資料編13近世6(全県)に関係資料を収録。
- ^ 髙橋(2009)pp.17-18
- ^ a b 髙橋(2009)p.18
- ^ 原信実『謎解き 広重「江戸百景」』集英社、2007年
- ^ 『やまなしの道祖神』山梨県立博物館、2005年(2013年)、p.54
- ^ a b c d 高橋(2015)、p.206
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