琥珀産業
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/18 02:38 UTC 版)
ドイツ騎士団の時代以前から、サンビア半島のバルト海岸(「琥珀海岸」)では琥珀の採集が行われていた。ドイツ騎士団は琥珀交易を独占し、プロシアの富の源泉となった。16世紀には、海岸沿いで集められた琥珀はパルムニッケンに集められ、ここで選別された後、さらなる加工のためにケーニヒスベルクへと送られていった。 1818年以降、琥珀の採集権は賃貸借された。1858年にはシュタンティエン・ウント・ベッカー社(Stantien & Becker)が設立された。同社は世界初の琥珀の露天掘り鉱山を開発したが、琥珀採掘の大部分は地下に坑道を掘る方式で行われた。主な鉱山には「アンナ」("Anna")と「ヘンリエッテ」("Henriette")があった。当初、これら鉱山は年間に50トンの琥珀を産出したが、1937年の時点では鉱山は国営の鉱業企業、プロイセン鉱山製錬株式会社(Preußische Bergwerks- und Hütten AG)により運営され、700人の労働者を雇用して年間650トンを産出するようになっていた。 ソ連時代、この地ではルースキー・ヤンタル社が生産を続け、年間600トンの琥珀を採掘していた。しかし2002年、資源保護や環境保護の観点から、ロシア連邦政府の当局が採掘を中止させている。その数年後、古い露天掘り鉱山の近くに新しい露天掘り鉱山「プリモルスコエ」が作られ、2008年には年間500トンの琥珀を生産している。
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