灤東(らんとう)作戦
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3月27日、武藤信義関東軍司令官は正式に「関作命第四九一号」を発令し、灤東作戦が開始された。 作戦の目的は満州国の国境としての長城を確保することにあった。実際には、長城から大砲の射程範囲内にある(日本側の主張する)中国領内の中国軍を掃蕩することが求められ、また中国側の飛行機の根拠地を爆撃して作戦の根拠を破砕することは当然とする発表も熱河戦中におこなわれていた。 何応欽が中央軍5万を北平・天津地域に集結させると、関東軍は武藤司令官の「長城を隔てる河北省は中華民国の領土である」として長城を越えて行動しないように自制していることに乗じ、熱河に対して7千の兵力を進めた。 中国軍は界嶺口方面における増強を継続し、新たな反撃の準備を行っていたが、3月末までの数日間において商震の部隊の一部と宋哲元の一旅団を加えた。同時に宋の大隊は熱河に入り、日本軍の背後を突こうとした。 3月31日、日本陸軍の当局者は外国人記者団からの「中国軍の長城線における挑戦態度が継続される場合に日本軍の行動はどのようになるか」との質問に対し、私見として「日本軍は忍べる限度までは忍ぶが中国軍が増長して反省がなければ一大鉄槌を下す場合を否定できない」としながらも、「中国側の挑戦は蔣介石一派が東北軍及びその他の雑色軍を日本軍により整理しようとする手段であり(後述の雑軍整理を参照)、整理されようとする軍の将領もこのことをようやく理解してきたことから何時までも続くものとは考えていない」と述べ、関内の東北軍将領が帰順すれば満州国は許すかとの質問には「満州国に忠誠を誓う者は許され家族・部下・財産が安全に保障された多くの例がある」と答えている。 日本軍は4月10日に攻勢を開始、長城のすぐ外側に航空基地を設け、37機を擁して長城の内側における爆撃と偵察行動のために使用していた。 4月22日、日本側は熱河省の南側国境から中国側の圧力を除き、目的(長城から大砲の射程範囲内にある中国軍の排除)をすべて達成したとして日本軍には作戦停止が命じられたこと、中国軍が灤河以東から完全に排除されたことを発表し、以後の日本軍は中国軍が新たな攻撃を行わないことを確認後直ちに撤退する予定であることを示した。 日本軍の侵攻停止は、4月18日、長城以南への侵攻を憂慮した昭和天皇が本庄繁侍従武官長に「関東軍に直接指令を出して侵攻作戦を停止させるか」と下問したことに始まり、本庄から報告を受けた眞崎甚三郎参謀次長が天皇の意向を記した親書を関東軍司令官に送付すると共に関東軍参謀長に即時撤兵を打電したことから長城線への撤退命令が発せられた。内田尚孝によれば本庄は眞崎参謀次長に対しその上奏内容と実情の違いを詰問し、眞崎以下陸軍中央が議論の末、「更に進出するとも一旦は長城線に復帰」させるための行動であったとしている 。 一方、中国側では3月13日に何応欽軍政部長(国防相)が軍事委員会北平分会代理委員長を兼任し、華北の軍事問題の処理にあたっていたが、4月18日に至り、蔣介石と汪兆銘に「敵は平津を包囲する」との状況判断を伝え、5月6日には戦闘継続か和睦かの判断を中央に迫った。
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