派閥争いと政党の復活
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/22 16:18 UTC 版)
「アメリカ合衆国の歴史 (1789-1849)」の記事における「派閥争いと政党の復活」の解説
詳細は「ジョン・クィンシー・アダムズ」を参照 1824年の大統領選挙ではテネシー州とペンシルベニア州がアンドリュー・ジャクソンを大統領候補者とし、サウスカロライナ州選出上院議員ジョン・カルフーンを副大統領候補とした。ケンタッキー州は下院議長のヘンリー・クレイを選んだ。マサチューセッツ州は国務長官のジョン・クィンシー・アダムズを選んだ。アメリカ議会議員の集会では財務長官のウィリアム・クロウフォードを選んだ。 選挙の結果を大きく左右したのは人格と派閥の連衡であった。アダムズはニューイングランドとニューヨークの大半の選挙人を獲得した。クレイはケンタッキーとオハイオ州およびミズーリ州を獲得した。ジャクソンは南東部イリノイ州、インディアナ州、ノースカロライナ州およびサウスカロライナ州、さらにペンシルベニア州、メリーランド州、ニュージャージー州を獲得した。クロウフォードはバージニア州、ジョージア州およびデラウェア州を獲得した。選挙人選挙では誰も過半数を獲得できなかったので、憲法の定めるところに従い、下院議員の選挙で決せられることになったが、その場合はクレイが有力であった。ジョン・クィンシー・アダムズはクレイの支持を取り付けて第6代大統領に当選し、クレイを国務長官に指名した。このことは「裏取引」として知られるようになった。 アダムズの任期中、新しい政党が生まれた。アダムズの支持者は国民共和党を名乗り、後にホイッグ党に改められた。アダムズは誠実にまた効果的に執務したが人気のある大統領にはなれず、いらいらが募るばかりであった。アダムズは、アメリカ・システムという名で知られる道路と運河の国家的交通網を作ろうとしたが失敗した。アダムズの執政期間は次の大統領選に向けての長い運動期間に重なり、その冷静で知的な雰囲気が災いして支持者を増やせなかった。 アンドリュー・ジャクソンは対照的に民衆の受けがよく、特に民主共和党から派生して新しく結成した民主党の支持者からの受けが良かった。この民主党はジェファーソン、マディソン、モンロー各大統領の流れを汲むことになった。
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