洋画排斥と日本画への回帰
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/03 08:00 UTC 版)
「田村宗立」の記事における「洋画排斥と日本画への回帰」の解説
しかし、明治20年代に入り洋画排斥運動が起こると、その波は京都にも及ぶ。明治21年(1888年)3月幸野楳嶺が画学校教頭となると彼と対立し、宗立は翌22年10月末日に退任に追い込まれる。西宗自体も、明治23年(1890年)生徒の募集が行われず、事実上廃止されてしまう。明治22年(1889年)祇園下河原月見町に私塾「明治画学館」を設立するも、趨勢には勝てず振るわない時を過ごす。明治24年(1891年)11月に四条で先月に起こった濃尾地震の被害状況を伝える幻燈会が開かれ、宗立が幻燈画を担当した。明治28年(1895年)京都で開かれた第4回内国勧業博覧会で建てられたパノラマ館では、宗立が絵を担当している。明治34年(1901年)関西美術会に発起人7名の1人として参加、明治36年関西美術会第3回総会において浅井忠の発起で、多年の功績を表彰される。明治38年(1805年)には関西美術院創設の設立発起人となり、開院後は関西美術院で指導にあたるなど京都洋画壇の発展に貢献した。晩年は竹田黙雷と親しく、明治41年(1908年)からは知恩院山内光玄院に住し、もっぱら水墨画による仏画や日本画を描いて余生を過ごした。 洋画家の黒田重太郎は宗立について、「写真の刺激から『日本画でもなければ西洋画でもない』一種の写生画に熱中した人」と述べている。その言葉通り、油絵で屏風を描いたり、写実的な仏画を描くなど、近代化の中でアイデンティティを模索した形跡が窺える作品が残っている。同じ京都の洋画の草分けとなった浅井忠も宗立を尊敬しており、宗立の母が長逝した際、関西美術院の研究者たちは画の勉強時間を惜しみ、葬儀の参列を総代だけ出して済まそうとすると、浅井は普段の温厚さが打って変わって「君達は田村先生を何と心得るのか」と怒ったという。宗立に子供はいなかったが養子が跡を継いでおり、その資料は京都市立芸術大学や京都国立近代美術館などに寄贈されている。
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