死後と影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 12:01 UTC 版)
「スティエパン・トマシェヴィチ (ボスニア王)」の記事における「死後と影響」の解説
スティエパン・トマシェヴィチは、ヤイツェ近くの丘に葬られた。彼の死後数週間でボスニアという一つの王国がほぼ完全に消滅してしまったことに、ヨーロッパ諸国は衝撃を受けた。ボスニアがオスマン帝国の支配を速やかに受け入れたのはスティエパン・トマシェヴィチと貴族たちの関係の弱さが原因であるとする説もあるが、より重要なのは、ボスニアの民衆の士気が極めて低く、もとからオスマン帝国による征服は不可避と思われていたことである。さらにセルビアを失った時と同様、ボスニアの複雑な宗教事情も不利に働いた。もしボスニアがハンガリーに支配されれば、オスマン帝国に支配されるよりもはるかに信教の自由が制限され、高い税を搾取されることになると思われた。その結果、ボスニアの本来の抵抗力と比べて、実際のオスマン帝国に対する抵抗は弱いものになった。教皇ピウス2世は、ボスニア教会の信者が王国を裏切ったのだと主張しているが、根拠はない。 スティエパン・トマシェヴィチの異母弟妹はコンスタンティノープルへ連行され、イスラム教に改宗した。彼らの母カタリナは教皇領に赴いて王国再興を志したが、成功しなかった。ボスニアがオスマン帝国の手を離れたのは1908年、スティエパン・トマシェヴィチの死後445年が経ってからのことだった。スティエパン・トマシェヴィチの妃マリアは、オスマン帝国の領内で余生を送った。 1888年、クロアチアの考古学者チロ・トルヘルカがヤイツェ近くのクラルイェヴ・グロブ(「王の墓」の意)と呼ばれる集落で、斬首された成人男性の遺骨を発掘した。頭は胴体の腰の上に置かれ、口に2枚の硬貨が詰め込まれていた。確証はないものの、この骸骨はスティエパン・トマシェヴィチのものであるとされた。修道士アントゥン・クネジェヴィチは、骨を数世紀にわたり眠っていたその場所に戻し、小さな教会を建てるべきだと主張したが、結局この骸骨はヤイツェのフランシスコ会修道院のガラス製の棺に収められることになった。
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