死後と子孫
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/29 14:23 UTC 版)
1655年6月11日、ジルガランは病死した。次男のジドゥ(済度、1633年 - 1660年)はすぐさま鄭親王を襲爵した。しかしこの爵位は、鄭親王から簡親王へと名称を変えられることになった。再び「鄭親王」となるのは、1778年に乾隆帝がジルガランを清の明に対する勝利の功労者として称えて太廟へ祀ることを認めた時だった。 ジドゥとその次男のラブ(喇布、1681年没)は、順治期後半から康熙期初期の軍事作戦に参加し、鄭成功や呉三桂の軍勢と戦った。 ジルガランの七世孫の端華(鄭親王)と粛順(端華の弟)は、咸豊期(1851年 - 1861年)に政治権力を握っていた。彼らは幼帝である同治帝(在位:1862年 - 1874年)の顧命大臣(摂政)に任命された8人のうちの2人となったが、辛酉政変によって廃され、慈禧太后(西太后)と恭親王奕訢が権力を握った。
※この「死後と子孫」の解説は、「ジルガラン」の解説の一部です。
「死後と子孫」を含む「ジルガラン」の記事については、「ジルガラン」の概要を参照ください。
- 死後と子孫のページへのリンク