楽浪王氏の起源
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 14:24 UTC 版)
楽浪王氏の起源は、前漢時代の琅邪郡出身の王仲であり、王仲は琅邪郡の豪族であったとみられる。呂雉時代に、斉の政治が乱れ、斉と前漢の関係は悪化した。襄王は王仲に援助を求めた。王仲がこれにどう対処したかは定かではないが、結局、王仲は斉の膠州湾から平壌近辺に移民した。王氏が平壌に定住して植民地化すると、さらに多くの族人が集まり、王氏は楽浪地域の「大姓」(その土地の豪族、大家)となる。 衛氏朝鮮の政権基盤は、燕や斉からの亡命者であるが、なかでも特に斉系の楽浪王氏である。 前漢時代には、楽浪王氏が楽浪郡の政治を掌握した。それは、王忠の子孫の王閎が「郡三老」と呼ばれていたことからも分かる。 衛氏朝鮮の国家運営にあたった4人の合議メンバー(路人、韓陰、参、王唊)である王唊は、後の楽浪王氏の成員とみられる。 楽浪郡には太守を殺害して「大将軍楽浪太守」を自称した漢人豪族である王調、この王調を殺害した王閎(王閎の八代祖先は山東半島からの移住者)、王光、王旴などのように楽浪郡治に土着化した漢人勢力一族がいた。 楽浪王氏の勢力は少なくとも北魏の6世紀まで続いた。 楽浪郡の出土遺物からは、楽浪王氏が楽浪地域の「大姓」(その土地の豪族、大家)であることを証明しており、出土した印章の印名はほとんどが「王」であり、また、印章に漢字が使用されていることから、漢人移民であることが裏付けられる。
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