栄達と晩年
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明治26年(1893年)のシカゴ万国博覧会 (1893年)では、九鬼や天心の意向から日本の展示は日本画を中心とした伝統的なものとなった。日本館として平等院鳳凰堂を模した鳳凰殿を建て、工芸品の輸出を積極的に促進したことが前回までとの大きな違いである。明治28年(1895年)4月に京都で開かれた第4回内国勧業博覧会では前回に続いて審査総長となった。この際、黒田清輝が出品した裸体画・「朝妝」が問題視されたが、九鬼の判断で展示が許可されている。同年6月には第2次伊藤内閣の下で枢密顧問官に任命された。 明治29年(1896年)、それまでの功績を称えて男爵に叙せられた。翌年には古社寺保存法の制定に加わり、同法により日本で初めて文化財が指定されている。明治31年(1898年)にいわゆる美術学校騒動が起き、岡倉天心と九鬼の妻・波津子の不倫が公になる。同年、天心は東京美術学校校長や帝国博物館美術部長を辞任することになった。 明治33年(1900年)、波津子との離婚が成立した。その後は主に美術行政に専念し、大正3年(1914年)に旧・有馬郡の役所を利用して自身の収蔵品を展示する三田博物館を設立している。大正9年(1920年)に議定官となった。枢密顧問官と議定官を務めたまま昭和6年(1931年)8月18日に鎌倉で亡くなった。 跡継としていた次男の一造に先立たれており、一造の長男の隆一郎が男爵位を継いだ。
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