栄光の末路
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 18:03 UTC 版)
詳細は「馬嵬駅の悲劇」を参照 楊国忠は剣南節度使を兼ねていたため、蜀地方への出奔を提言。この時、「安禄山の謀反の兆しを陛下が信じなかったからであり、宰相の責任ではない」と広言したと言われる。玄宗も同意し、太子李亨・楊貴妃・楊氏一族・宦官の李輔国・高力士・韋見素・魏方進・陳玄礼らを連れ、密かに西方へと出発した。 馬嵬(ばかい)駅(現在の陝西省咸陽市興平市)に着いたところで、将士の疲労と飢餓は極限に達して前進を拒否。楊国忠への誅殺を決意した龍武大将軍の陳玄礼は、李輔国を通して太子李亨に決断をうながしたが、まだ、下らなかった。しかし、陳玄礼は「今天下崩離,萬乗震盪,豈不為楊国忠割剥甿庶,朝野怨尤,以至此耶?若不誅之以謝天下,何以塞四海之怨憤」(今日、天下は崩れ落ち、天子の地位は揺らいでいる。楊国忠のために亡民は苦しみ、朝野に怨嗟が渦巻いているのではないか?もしこれを誅せずに天下に謝すれば、どのように四海の恨みと憤りを抑えられようか)と述べた。たまたま、楊国忠が吐蕃の使者と会話していたため、兵士が「楊国忠が蛮人と謀反を起こそうとしているぞ」と叫び、襲いかかり、西門内に逃げ入った楊国忠は、そのまま殺害され、首は槍先に刺された。 御史大夫の魏方進は「なぜ、宰相を殺したのだ」と兵士をとがめたために殺害され、楊国忠の子の楊暄・韓国夫人(虢国夫人・楊貴妃の姉)も殺害された。さらに兵士らは玄宗に迫って、楊貴妃の処刑も要求し、高力士の説得により、玄宗は泣く泣く楊貴妃を縊死させたという。楊国忠の残りの子も全て、前後して殺害されている。
※この「栄光の末路」の解説は、「楊国忠」の解説の一部です。
「栄光の末路」を含む「楊国忠」の記事については、「楊国忠」の概要を参照ください。
- 栄光の末路のページへのリンク