枢機卿時代とは? わかりやすく解説

枢機卿時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/15 05:20 UTC 版)

クレメンス7世 (対立教皇)」の記事における「枢機卿時代」の解説

1376年から1378年までロベール教皇特使として、フランス人主導権を握る教皇庁反感を抱く教皇領の諸都市コムーネ)の叛逆予防鎮圧するために、イタリア北中部赴任した1377年反乱起こしたチェゼーナ鎮圧するためにロベールは自ら軍隊指揮したその際傭兵隊ジョン・ホークウッド率い部隊によって、約4000人の一般市民虐殺され事件起こった真相未だ解明されていないが、ロベールがこの大虐殺指示または承認したとの話が広まり、彼は「チェゼーナ大虐殺者」の汚名着せられるになった。この虐殺事件また、教皇帰還し間もないローマにおいても、教皇対す市民らの激し抗議殺到し再度アヴィニョンへ戻ることも検討されるほどの事態を招くに至った1378年3月27日フランス出身教皇グレゴリウス11世死去しローマで教皇選挙コンクラーヴェが行われた。イタリア出身新教皇を要求するローマ市民取り囲まれた状態で、4月8日枢機卿団圧力屈してナポリ出身ウルバヌス6世選出した枢機卿の中で最初にウルバヌス6世支持表明したロベールであったが、教皇即位後の粗暴な振る舞い失望した彼は、他のフランス人枢機卿と共に対立深める8月9日ロベールを含むフランス人枢機卿アナーニにおいてウルバヌス6世選出無効宣言9月20日フォンディ集まり教皇選挙やり直しその結果ロベール教皇として選出された。

※この「枢機卿時代」の解説は、「クレメンス7世 (対立教皇)」の解説の一部です。
「枢機卿時代」を含む「クレメンス7世 (対立教皇)」の記事については、「クレメンス7世 (対立教皇)」の概要を参照ください。

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