枢機卿時代
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「クレメンス7世 (対立教皇)」の記事における「枢機卿時代」の解説
1376年から1378年までロベールは教皇特使として、フランス人が主導権を握る教皇庁に反感を抱く教皇領の諸都市(コムーネ)の叛逆を予防・鎮圧するために、イタリア北中部へ赴任した。1377年、反乱を起こしたチェゼーナを鎮圧するためにロベールは自ら軍隊を指揮した。その際、傭兵隊長ジョン・ホークウッドが率いる部隊によって、約4000人の一般市民が虐殺される事件が起こった。真相は未だ解明されていないが、ロベールがこの大虐殺を指示または承認したとの話が広まり、彼は「チェゼーナの大虐殺者」の汚名を着せられる事になった。この虐殺事件はまた、教皇が帰還して間もないローマにおいても、教皇に対する市民らの激しい抗議が殺到し、再度アヴィニョンへ戻ることも検討されるほどの事態を招くに至った。 1378年3月27日、フランス出身の教皇グレゴリウス11世が死去し、ローマで教皇選挙(コンクラーヴェ)が行われた。イタリア出身の新教皇を要求するローマ市民に取り囲まれた状態で、4月8日に枢機卿団は圧力に屈してナポリ出身のウルバヌス6世を選出した。枢機卿の中で最初にウルバヌス6世支持を表明したロベールであったが、教皇即位後の粗暴な振る舞いに失望した彼は、他のフランス人枢機卿らと共に対立を深める。8月9日にロベールを含むフランス人枢機卿はアナーニにおいてウルバヌス6世選出の無効を宣言、9月20日にフォンディに集まり教皇選挙をやり直し、その結果ロベールは教皇として選出された。
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