本太城合戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/20 13:16 UTC 版)
その後、元載は備前国児島(当時は半島でなく島)の本太城を攻め戦死した(本太城合戦)。 永禄11年の本太城合戦 永禄11年(1567年)7月、浦上宗景とその家臣・宇喜多直家は、三村氏との明善寺合戦に勝利し、備前から三村元親・毛利元就の勢力を駆逐した。一方、畿内では同年10月、織田信長が上洛し、三好勢は阿波国に撤退している。同年、香西氏は本太城を攻めたが、香西又五郎(元載と同一人物との説がある)が小早川隆景(毛利氏)の傘下に居た村上元吉の家臣、島吉利に敗れ戦死している。 元亀2年の本太城合戦 永禄12年(1568年)9月頃、宇喜多直家が織田信長と結び浦上宗景から離反したが、織田の援軍はすぐに播磨国を去ったため、宇喜多直家は年内に降伏し、再度、浦上宗景に臣従した。その後、永禄13年(1569年)10月、浦上宗景と宇喜多直家は、大友宗麟・尼子勝久と通じ、毛利氏と敵対する。元亀元年(1570年)10月、浦上宗景は三好氏と結び、播磨三木城を攻撃。同月、宇喜多直家は毛利氏傘下の備前幸山城を攻撃した。 元亀2年(1571年)2月、本太城を擁する村上武吉も浦上宗景と結び毛利家から離反した。小早川隆景は即座に本太城討伐の兵をあげ、同年4月には、本太城を陥としている。 『南海通記』による記録では、元亀2年春、元載は、小早川隆景と同盟を結び浦上方の児島を攻める為、三千五百の兵を率い渡海した。児島日比浦の国人・四宮隠岐守の案内で備前児島に上陸、賀陽城(通生)を落とし、香西家重臣の植松往正が敵将の吉田右衛門尉を討ち取った。しかし、続いて本太城を攻めたところ、霧の中で守備兵の反撃に遭い香西元載は戦死した。
※この「本太城合戦」の解説は、「香西元載」の解説の一部です。
「本太城合戦」を含む「香西元載」の記事については、「香西元載」の概要を参照ください。
- 本太城合戦のページへのリンク