普及の開始
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/26 10:11 UTC 版)
クリストフォリの楽器は、1711年にフランチェスコ・スキピオーネ(スキピオーネ・マッフェイ)によるヴェネツィアの Giornale de'letterati d'Italia 掲載記事によって有名になった。この記事には、クリストフォリの発明の要である、アクションの図解も掲載されていた。1719年にはスキピオーネの著書に再録され、更にヨハン・マッテゾンの『音楽評論』(Critica Musica)にドイツ語の翻訳が収められた(1725年)。恐らくこのマッテゾンの書を通じて、ドイツ語圏にフォルテピアノが普及していく。 クリストフォリの楽器の普及は、当初はかなりゆっくりであった。これはチェンバロよりも製作が難しく、極めて高価であったためと推測されている。しばらくの間、フォルテピアノは王族の楽器であり、クリストフォリ製作やクリストフォリ風の楽器は、ポルトガルやスペインの宮廷で演奏されていた。ドメニコ・スカルラッティの弟子でもあったスペイン王妃バルバラ・デ・ブラガンサは数台のフォルテピアノを所有していたことで知られており、スカルラッティ本人もフォルテピアノを演奏していた可能性がある。個人でフォルテピアノを所有した最初期の人物には、カストラートのファリネッリがいるが、ファリネッリの楽器は、バルバラの死後譲り受けたものであった。 特にフォルテピアノのために書かれた最初の楽曲、ロドヴィコ・ジュスティーニの「ツィンバロ・ディ・ピアノのためのソナタ」(Sonate da cimbalo di piano, 1732年)が書かれたのもこの時期である。この作曲は単発的なものであり、ジェームス・パラキラスは、ジュスティーニの王族のパトロンたちはこのような楽曲の出版はジュスティーニにとって名誉となると考えていたと推測している(Parakilas, 1999)。楽器が高嶺の花であるうちは、フォルテピアノのための楽曲の市場はなかったと考えられる。 フォルテピアノが本格的に人気を得るのは1760年代になってからであったようだ。この時期から、公衆の前での演奏の記録があり、フォルテピアノのためと記された楽曲の出版も幅広く行われるようになった。「強い音と弱い音」を交互に出すことを作曲家が楽譜で頻繁に指示することも、目だって増えてくる。
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