音楽評論家
音楽評論
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「アーネスト・ニューマン」の記事における「音楽評論」の解説
1905年にバーミンガムを離れて『マンチェスター・ガーディアン』紙の音楽評論家となったニューマンであったが、彼は物議を醸す評論家であり、地元の音楽に関する主流派から不興を買うこともあった。ハレ管弦楽団の聴衆が独りよがりであるとして、「事なかれ主義者」や「(芸術の)破壊者」といった言葉で彼らを非難し、指揮者のハンス・リヒターによるプログラムが時代遅れで冒険がないとして酷評、さらに同楽団の演奏水準の低さを批判した。彼はその痛烈さによって仕事を失う羽目に陥り、翌年にはマンチェスターを後にしてサミュエル・ラングフォードが後任に就いた。バーミンガムへ出戻ったニューマンは『バーミンガム・ポスト』の音楽評論家となった。『ガーディアン』紙は後に彼のキャリアのこの時期について次のように評している。「バーミンガムでの彼は絶好調で、毎朝新人の歌手やフィドル奏者について辛口に書き立て、新作を素早く評価し、一方で毎週月曜日の自分の記事を白熱のディベート会場に変えていた。」 バーミンガムでの時期にはリヒャルト・シュトラウス(1908年)、エドワード・エルガー(1906年)、フーゴ・ヴォルフ(1907年)、リヒャルト・ワーグナー(1914年)に関する研究論文を執筆した。中でもヴォルフに関するものは40年以上にわたって英語で書かれた唯一の研究論文で、ドイツ語に翻訳されて出版されるという栄誉に与った。『タイムズ』紙は1914年のワーグナーの文献をこう評する。「彼のこの芸術家へのとてつもなく大きな称賛、並びにこの人物への軽蔑が『人間そして芸術家としてのワーグナー』の中には提示されている。バイロイトの儀式の熱心な信者にとっては癪に障る強力な一冊である。」 最初の妻は1918年にこの世を去った。1919年にかつてミッドランド研究所で音楽の教え子だったヴェラ・ハンズと結婚し、同年にバーミンガムを「非音楽的、そして概して無教養」であると看做したニューマンは、ロンドンへ移住して日曜新聞であった『オブザーバー』紙の音楽評論家となった。かつての彼はロンドンの日刊紙の音楽評論家に求められるような、日課として演奏会へ通うような日々の予定を受け入れることを厭い、ロンドンへ移ることを一切拒否していたが、『オブザーバー』紙は彼が性分に合うと感じざるを得ないような条件を提供したのであった。
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音楽評論
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「20世紀のクラシック音楽」の記事における「音楽評論」の解説
20世紀初頭における音楽評論家として、作曲家のクロード・ドビュッシーが挙げられる。ドビュッシーは「ラ・ルヴェ・ブランシュ」(1901)や「反好事家八分音符氏」(1913)などの評論集を通じて、ジャン=フィリップ・ラモーなどに代表されるフランスにおけるバロック音楽の伝統の再評価や、同時代の作曲家たち(グリーグ、マスネ、フランク、ダンディなど)への批評を行った。 第2次世界大戦後では、思想家のテオドール・アドルノが、シュトックハウゼンやブーレーズなどによる当時の前衛音楽を自身の評論などを通じて擁護した。 日本では、戦前は大田黒元雄や野村胡堂 (あらえびす)が、クライスラーやドビュッシーといった当時の最先端のクラシック音楽の作曲家やその作品を日本に紹介した。戦後は山根銀二や吉田秀和、宇野功芳などが活躍した。
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