晩年の思想
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/21 04:47 UTC 版)
小学校の現場を追われても千葉は一貫して創造性と教育の問題を追及した。しかし大正デモクラシーの運動が厳しく弾圧されるようになると、千葉は孤立を深めていった。千葉の理論は抽象的で直接教育現場で利用できるようなものではなかったので、現場に根を張ることができなかった。また千葉は1929年の『危険思想とその批判』の中で、「創造性を大切にせよ」と主張し、当時の「左翼思想を危険思想として抑圧するのは間違いだ」と力説した。そして、「すべての創造的な思想というものはすべて危険思想なのだから、左翼思想を弾圧すると、すべての独創的思想を弾圧することになる」と主張した。千葉の思想は国粋主義者も利用することができず、千葉も迎合することを拒否した。千葉の思想は孤立しつつも、なお本物であり続けた。 1943年の『教育思想学説人物史』(藤原喜代蔵)には、 立正大学を辞して後は、自ら独創学会を作り、『独創』という小冊子を出したり、講演を試みたりしていた。後には日満教育連盟を作って画策したが、いずれも失敗に帰し、現在では地方まわりの講師などをしているとの風評があり、ほとんど教育会からは忘れられた観がある。 と書かれている。 彼の思想は日本主義的であったが、昭和の国家主義には迎合しなかった。日本の敗戦後は千葉は独創教育論を全く展開していない。しかし、千葉の思想は神戸伊三郎の「新学習課程」論に受け継がれた。
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