春秋園事件と板垣会館建設
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「関東國粹会」の記事における「春秋園事件と板垣会館建設」の解説
1932年(昭和7年)1月6日、力士・天竜が大日本相撲協会の体質改革を目指して春秋園事件を起こすと、大日本相撲協会は、1月12日、関東国粋会に調停を依頼。相撲協会に造反した新興力士団30名が2組になって一斉に断髪式を行い、切り落とした髷を白紙に包み後援会員が代表して関東国粋会の本部へ陳謝状と共に届けた。この時、天竜本人への調停は不調に終わり、天竜らはその後、大阪角力協会(大日本関西相撲協会)を立ち上げるが、次第に苦境に立つ。天竜は、自分に従って東京角力協会を離脱した若い衆たちの協会復帰を模索。1936年(昭和11年)、大東流合気柔術の継承者・久琢磨を通じて国粋会の顧問・頭山満に会い、関東国粋会会長へ詫びを入れた上で出羽海への仲介を依頼。頭山はこの取り纏めを引受ける条件として、高知・板垣会館の建設資金捻出のため大阪で「板垣伯報恩相撲」を興行するよう要請。その結果、1937年(昭和12年)1月17日、天竜らは梅田阪急百貨店横に特設された土俵で「板垣伯報恩相撲」を興行し資金を送った。同年4月6日、板垣会館は頭山満を主賓に迎えて落成し、天竜らも同年夏場所を最後とし、12月に大阪角力協会(大日本関西角力協会)を解散。天竜は若い衆を大日本相撲協会へ復帰させ、自らは責任を取って廃業した。しかし、天竜は若い衆を守り、自らは潔く責任を取って廃業した事から、逆にその舎弟思いの気風が買われ、1941年(昭和16年)、相撲協会に復帰し顧問に就任した。
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