映画館主からプロデューサーへ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 14:30 UTC 版)
「ルイス・B・メイヤー」の記事における「映画館主からプロデューサーへ」の解説
同年にメイヤーは、マサチューセッツ州のハーバーヒルで朽ち果てた小劇場を買収。1907年に大改修を施して再オープンし、近隣の住民を呼び込むことに成功する。メイヤーが取った戦略とは、汚れた劇場を白い漆喰で覆い隠しオルガンを設置、更に宗教的なメッセージを持つ映画を上映することで、従来のいかがわしいイメージを払拭すると言うものだった。このときに学んだ「アメリカ人は単純で健全な娯楽を欲している」という教訓を、メイヤーは生涯忘れることがなかったとされる。 当時急成長中だった映画産業の将来性に目をつけたメイヤーは、その後も周辺の劇場を次々と買収、やがてニューイングランド屈指の劇場チェーンを築くことになる。1914年にメイヤーは、映画の配給権の買取ビジネスを開始する。翌1915年にD・W・グリフィス監督作品『國民の創生』が公開されたときには、ニューイングランドにおける独占配給権を獲得し一財産を築いた。同年、その資金を元手にリチャード・A・ローランドと組み、映画会社メトロ・ピクチャーズ(Metro Pictures Corporation)をニューヨークに設立し、その副社長に就任した。1918年に、メトロ・ピクチャーズを離れたメイヤーは、自前の映画製作会社であるルイス・B・メイヤー・ピクチャーズ(Louis B. Mayer Pictures Corporation)を設立、西海岸のロサンゼルスに進出を果たした。メイヤーの会社が最初に製作した劇場映画は、1918年に公開された『Virtuous Wives』というドラマ映画だった。 メイヤーにとって転機が訪れるのは、1924年のことである。この年に全米有数の劇場チェーンの所有主であるマーカス・ロウは、映画業界の再編成を画策。ロウの指揮の下で、メイヤーの退社後に、ロウの傘下に入っていたメトロ・ピクチャーズとサミュエル・ゴールドウィンの保有するゴールドウィン・ピクチャーズ(Goldwyn Pictures Corporation)、更にメイヤーが保有するルイス・B・メイヤー・ピクチャーズの三社が合併し、メトロ・ゴールドウィン・メイヤーが誕生することになった。この流れの中で、メイヤーは同社の映画製作部門の最高責任者に就任。企業の名目上のトップはロウであったものの、新生メトロ・ゴールドウィン・メイヤーの実質的な主導権を握ることになる。
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