映画界入りのきっかけ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 13:36 UTC 版)
「市川右太衛門」の記事における「映画界入りのきっかけ」の解説
右太衛門がマキノ省三の「マキノ・プロダクション」に誘われ、映画界入りしたのは1925年だが、前年の1924年にも帝国キネマから誘いを受けていて、これを断っている。このいきさつについて、次のように語っている。 「その頃、帝キネには舞台で一緒だった市川百々之助がいまして、百々之助ができるんなら、私にもできるのではないかと思いました。若かったですからねえ。でもその頃私、舞台で主役やってましたから、舞台が面白くて面白くて。それで、このときはお断りしました」 「マキノに入りましたのは、マキノ省三さんが私の“勧進帳”を観て、とてもいいとほめてくれたからでもあるんです。ええ、弁慶やってました。去年も活動写真から誘われて、今年も誘われた。しかも今度はマキノ、主演者として迎えてくれるという。それで心が動きましたね」 主演を張っていても梨園の御曹司ではない右太衛門にしてみれば先を読んだところもあり、高額の出演料も魅力だった。が、母親は「舞台で主演させてもらってるのに、どうして活動写真なんか行くの」、「活動写真に行くと、みんな(照明で)眼を悪くして、中には眼をつぶす人もいるというではないの」と、最後までカツドウ入りを反対していたという。当時映画界に転じた役者は「板から泥に下りた」と軽んじられる風潮があった。しかしこの頃は、市川猿之助がマキノに誘われ『日輪』、『天一坊と伊賀亮』を撮り、澤田正二郎が新国劇一党を率いて『月形半平太』、『恩讐の彼方に』に出演するという時勢でもあった。19歳の右太衛門はこの時代の転換期にいち早く身を投じた一人だったのである。
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