新広西派での活躍とは? わかりやすく解説

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新広西派での活躍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/05 00:25 UTC 版)

黄紹竑」の記事における「新広西派での活躍」の解説

11月黄紹竑李済深招請に応じて広州訪問し中国国民党加入した広西に戻ると、李宗仁広西善後督弁、黄は同会弁に任ぜられた。翌年新広西派はついに広西統一する9月、黄は広西省政府民政庁長に任ぜられ、広西省内政改革取り組んだ。黄は内政手腕にも優れ、その好成績から「新広西」として国内でも評判になった1926年民国15年3月李宗仁率いる軍は国民革命軍第7軍改組され、軍長黄紹竑は同軍党代表となった同年夏、国民政府の下での制度改正に伴い、黄は広西省政府主席に任ぜられた。翌年4月の上クーデターでは、蒋介石意を受けて、黄紹竑部下黄旭初中国共産党粛清命じたまた、南昌起義鎮圧張発奎・黄琪翔率いる反蒋粤軍の撃破指揮もとった。 しかし1929年民国18年3月蒋桂戦争勃発すると、黄紹竑桂軍として蒋介石軍と戦うことになる。一時は、兪作柏らの離反により、李宗仁白崇禧とともに香港逃れざるを得なかった。しかし、まもなく広西大混乱陥ったため、3人は同年11月に再び新広西派指導者として返り咲くことが出来た翌年には、またしてもらに反旗を翻した呂煥炎を、黄は撃破している。 同年中原大戦で反蒋介石軍が敗北すると、黄紹竑第15軍軍長広西省政府主席地位捨てて下野する。以後、蒋への徹底抗戦は困難と考え、黄は新広西派から事実上離脱して南京入りした。翌年には、広州常国会の反蒋運動への対抗上から、一時的に蒋から広西軍善後督弁に任命されたが、現地には向かうことが出来なかった。1932年民国21年5月内政部代理任命されている。

※この「新広西派での活躍」の解説は、「黄紹竑」の解説の一部です。
「新広西派での活躍」を含む「黄紹竑」の記事については、「黄紹竑」の概要を参照ください。

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