新広西派での活躍
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11月、黄紹竑は李済深の招請に応じて広州を訪問し、中国国民党に加入した。広西に戻ると、李宗仁は広西善後督弁、黄は同会弁に任ぜられた。翌年、新広西派はついに広西を統一する。9月、黄は広西省政府民政庁庁長に任ぜられ、広西省の内政改革に取り組んだ。黄は内政手腕にも優れ、その好成績から「新広西」として国内でも評判になった。 1926年(民国15年)3月、李宗仁率いる軍は国民革命軍第7軍に改組され、李が軍長、黄紹竑は同軍党代表となった。同年夏、国民政府の下での制度改正に伴い、黄は広西省政府主席に任ぜられた。翌年4月の上海クーデターでは、蒋介石の意を受けて、黄紹竑も部下の黄旭初に中国共産党粛清を命じた。また、南昌起義の鎮圧、張発奎・黄琪翔率いる反蒋粤軍の撃破の指揮もとった。 しかし1929年(民国18年)3月、蒋桂戦争が勃発すると、黄紹竑も桂軍として蒋介石軍と戦うことになる。一時は、兪作柏らの離反により、李宗仁、白崇禧らとともに香港へ逃れざるを得なかった。しかし、まもなく広西が大混乱に陥ったため、3人は同年11月に再び新広西派の指導者として返り咲くことが出来た。翌年には、またしても李らに反旗を翻した呂煥炎を、黄は撃破している。 同年の中原大戦で反蒋介石軍が敗北すると、黄紹竑は第15軍軍長兼広西省政府主席の地位を捨てて下野する。以後、蒋への徹底抗戦は困難と考え、黄は新広西派から事実上離脱して南京入りした。翌年には、広州非常国会の反蒋運動への対抗上から、一時的に蒋から広西軍務善後督弁に任命されたが、現地には向かうことが出来なかった。1932年(民国21年)5月、内政部長代理に任命されている。
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