斉藤氏の時代とは? わかりやすく解説

斉藤氏の時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/13 22:25 UTC 版)

岩櫃城」の記事における「斉藤氏の時代」の解説

戦国時代吾妻の子孫と称する斉藤憲次が、主君大野憲直を討ち岩櫃城奪ったその子斉藤憲広は岩櫃城拠点として吾妻郡一帯地侍支配下においたという。 永禄3年1560年)、長尾景虎上杉謙信)が岩櫃城攻め落とした伝わる。その後、城は斉藤氏の手に戻る。 岩櫃城となった斎藤氏時代詳細は、斎藤氏系譜同様に複数伝わっておりはっきりしない地元旧記では吾妻行盛-斎藤憲行-行禅-行弘-行基-行連-憲広(基国)と系譜伝え、行禅のときに重臣秋間氏の反対押し切って柳沢城を家臣娘婿柳沢安吉与えたが、行弘のときに柳沢安吉反乱起こし鎮圧されたという。一方斎藤氏系図」(『吾妻郡城塁史』記載)では、越前国大野郡にあった斎藤基国の子斎藤憲行が入り、憲行の長男・憲実が岩継ぎ、他の兄弟分家したのだが、五男・憲基の子孫たる大野氏勢力拡大家臣の秋間氏を滅ぼして宗家・憲実を支配下置いたという。その後大野氏大野憲直のときに、四男・山田基政の嫡孫岩下城主・斎藤憲次の反乱によって滅び岩櫃城は憲次が支配しその子・憲広に受け継がれたという。 斎藤憲広上杉氏属して勢力拡大したが、郡内豪族羽尾氏鎌原氏(三原庄)の領地争い介入羽尾氏味方)したことで、両氏仲介入っていた信濃国小県郡真田氏、および真田家主家である甲斐武田氏による介入を招くことになる(羽尾氏鎌原氏・真田氏は共に海野氏系で近い関係にある)。永禄3年1560年)に鎌原幸重が武田家信濃先方衆である真田幸隆を介して武田家臣従して、武田氏後ろ盾を得る。それに対して永禄5年1562年)に斎藤憲広羽尾幸世など羽尾氏と共に鎌原城を攻略し鎌原氏を信濃追い払う事に成功する。しかし、程なく鎌原城を奪回されるなど真田勢の攻勢を受け、永禄6年1563年)には家臣内応もあって落城、憲行は越後逃走した斎藤氏は憲行の末子・城虎丸近隣嶽山城篭っていたが、永禄8年1565年)に落城斎藤氏勢力駆逐された。

※この「斉藤氏の時代」の解説は、「岩櫃城」の解説の一部です。
「斉藤氏の時代」を含む「岩櫃城」の記事については、「岩櫃城」の概要を参照ください。

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