教育学者との論争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/05 06:35 UTC 版)
三島は常に学校衛生の観点から子どもの健康を論じた。これに対し教育学者からは三島の姿勢に対する反発も生まれた。明治29年、日清戦争後の風潮により尚武的気運が高まった。これを受けて文部省は小学校の体育に撃剣と柔術を導入するべきか(「学校生徒に撃剣柔術を課するの如何」)を学校衛生顧問会議に諮問した。これは同会議が発足してからの最初の議題であった。大日本教育会や東京府教育会などの愛国的、尚武的な内容を教育内容に反映させようとする立場からは、打撃による脳障害などの発病、過激性、乏しい履修効果などの当時あった見解を否定し、却って持久性、敏捷性、骨格強化及び徳性の滋養に絶大な効果があると主張された。 これらの動向に対して当時、学校衛生顧問会議主事であった三島は、「この問題は純粋な体育問題であり、衛生学者の研究すべき問題である。素人である教育学者が尚武などといった教育的理由で子どもの健康を論じるのは拙策である。」と非難した。国家医学会も三島のこの発言と同様の趣旨を表明し、東京府教育会に対して注意を呼びかけている。また三島は、「撃剣は小学児童の体育に全く益が無いのみならず、むしろ弊害有り。局部の運動であって円満な発育を望めない。」と断じている。これらに対して東京府教育会は「教育会は何故に体育問題を議論することができないのか。」と強く反発した。その後、学校衛生顧問会議は「撃剣柔術ハ之ヲ体操術トシテ生徒ニ課スルハ害アリ 但満十五歳以上ノ者ニ一ノ遊戯トシテ之ヲ採用スルハ妨ゲナシ」 とする答申を文部大臣に示し、文部省は小学校への導入を見送った。
※この「教育学者との論争」の解説は、「三島通良」の解説の一部です。
「教育学者との論争」を含む「三島通良」の記事については、「三島通良」の概要を参照ください。
- 教育学者との論争のページへのリンク