教如退隠
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穏健派と顕如の室如春尼(教如の実母)は、顕如が書いた「留守職譲状」を秀吉に示して、遺言に従い三男の准如に継職させるよう直訴。 この訴えを受けた秀吉は、文禄2年(1593年)閏9月12日、教如を大坂に呼び、下記の十一か条を示した。 大坂ニ居スワラレ候事。 信長様御一類ニハ大敵ニテ候事。 太閤様の御代ニテ、雑賀ヨリ貝塚ヘ召シ寄セラレ、貝塚ヨリ天満ヘ召シ出サレ、天満ヨリ七条ヘ遣シアゲラレ候事、御恩ト思シ召サレ候事。 当門跡不行儀のこと、先門跡時ヨリ連レント申上候事。 代ユヅリ状コレアル事、先代ヨリユヅリ状モコレアル由ノ事。 先門跡セツカンノ者メシ出サレ候事。 メシ出サレ候人ヨリモ、罷リイデ候者ドモ、不届キニ思シ候事。 当門主妻女ノ事。 ソコ心ヨリ、トドカザル心中ヲ引キ直シ、先門跡ノゴトク殊勝ニタシマミ申スベキ事。 右ノゴトクタシナミ候ハバ、十年家ヲモチ、十年メニ理門ヘアイ渡サルベキ事、是ハカタ手ウチノ仰付ラレ様ニテ候得共、新門跡コノウチ御目ヲカケラレ候間、カクノゴドク由ニ候。 心ノタシナミモナルマジキト存ゼラレ候ハバ、三千国無役ニ下サルベク候アイダ、御茶ノ湯トモダチナサレテ候テ、右メシイダシ候イタヅラモノ共メシツレ。御奉公候ヘトノ儀に候。 つまり、問題点(上記の1~8)を挙げ、10年後に弟の准如に本願寺宗主を譲る旨の命が下される。 教如はこの命に従おうとしたが、周辺の強硬派坊官たちが、秀吉に異義を申し立て、譲り状の真贋を言い立てたため秀吉の怒りを買い、「今すぐ退隠せよ」との命が下される。同年閏9月16日、准如が本願寺宗主を継承し、第十二世となる事が決定する。 教如は本願寺北東の一角に退隠させられ、「裏方」と称せられる。引退後も教如は精力的に布教活動にいそしみ、なお本願寺を名乗って文書の発給や新しい末寺の創建を行っている。のちの本願寺分立の芽は着々と育っていた。
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