教如退隠とは? わかりやすく解説

教如退隠

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/31 06:26 UTC 版)

本願寺の歴史」の記事における「教如退隠」の解説

穏健派顕如の室如春尼教如実母)は、顕如書いた留守譲状」を秀吉示して遺言従い三男准如に継職させるよう直訴。 この訴え受けた秀吉は、文禄2年1593年)閏9月12日教如大坂呼び下記十一か条を示した大坂ニ居スワラレ候事。 信長様御一類ニハ大敵ニテ候事。 太閤様の御代ニテ雑賀ヨリ貝塚ヘ召シ寄セラレ、貝塚ヨリ天満ヘ召シ出サレ天満ヨリ七条ヘ遣シアゲラレ候事、御恩ト思シ召サレ候事。 当門跡不行儀のこと、先門跡ヨリレント申上候事。 代ユヅリ状コレアル事、先代ヨリユヅリ状モコレアル由ノ事。 先門跡セツカンノ者メシサレ候事。 メシサレ候人ヨリモ、罷リイデ候者ドモ、不届キニ思シ候事。 当門主妻女ノ事。 ソコヨリ、トドカザル心中ヲ引キ直シ、先門跡ノゴトク殊勝ニタシマミ申スベキ事。 右ノゴトクタシナミ候ハバ十年家ヲモチ、十年メニ理門ヘアイ渡サルベキ事、是ハカタウチノ仰付ラレ様ニテ候得共、新門コノウチ御目ヲカケラレ候間、カクノゴドク由ニ候。 心ノタシナミモナルマジキト存ゼラレ候ハバ三千無役ニ下サルベク候アイダ御茶ノ湯トモダチナサレテ候テ、右メシイダシ候イタヅラモノ共メシツレ。御奉公候ヘトノ儀に候。 つまり、問題点上記の1~8)を挙げ10年後に弟の准如本願寺宗主を譲る旨の命が下される教如はこの命に従おうとしたが、周辺強硬派坊官たちが、秀吉異義申し立て譲り状真贋言い立てたため秀吉怒りを買い、「今すぐ退隠せよ」との命が下される同年9月16日准如本願寺宗主継承し第十二世となる事が決定する教如本願寺北東一角退隠させられ、「裏方」と称せられる。引退後教如精力的に布教活動いそしみ、なお本願寺名乗って文書発給新し末寺創建行っている。のちの本願寺分立着々と育っていた。

※この「教如退隠」の解説は、「本願寺の歴史」の解説の一部です。
「教如退隠」を含む「本願寺の歴史」の記事については、「本願寺の歴史」の概要を参照ください。

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