成都失陥
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/19 05:48 UTC 版)
3月、羅尚は督護の常深を毗橋へ派遣し、さらに牙門左氾・黄訇・何沖を派遣して、三道から北営を攻撃した。さらに涪陵の民である薬紳がこれに呼応し、李流を攻撃した。李流は薬紳を打ち破ると、そのまま常深の陣を攻めてこれに勝ち、常深の士卒は四散した。何沖らが北営を攻撃すると、営内にいた氐族の苻成と隗伯が呼応したが、李流らが引き返してきた為、何沖らは大敗を喫した。苻成と隗伯は部衆を率いて羅尚の下に奔った。李流が軍を進めて成都に迫ると、羅尚は閉門して守りを固めた。 5月、李流は降伏を決断し、子の李世と李含の子の李胡を孫阜の軍に人質として派遣したが、李特の子である李雄は独断で孫阜軍を攻撃してこれに大勝した。宗岱も墊江で死去した為、荊州軍は撤退した。 6月、李雄は羅尚の軍を攻撃した。羅尚は成都太城に籠った為、李雄は江を渡って汶山郡太守の陳図を攻撃して彼を殺害すると、遂に郫城に入った。 7月、羅尚の参軍徐轝は青城山に拠点を築いていた范長生を汶山郡太守に任じ、彼と呼応して李流を討つことを望んだ。だが、羅尚はこれを許さなかった。徐轝はこれを怨み、江西へ使者を遣わして李流に降った。李流は徐轝を安西将軍に任じた。徐轝は范長生らを説き伏せ、李流に軍糧を供給させた。 李雄配下の朴泰が羅尚に偽装投降を行い「郫城を攻撃すれば内から応じます」と伝えた。羅尚はこれを信じ、隗伯に命じて郫城を攻撃させた。隗伯は城壁に近づいた所で李驤の襲撃を受けて大敗した。隗伯が逃走すると、李驤は追撃して成都少城まで至ち、万歳を唱えて「郫城を攻略したぞ!」と城内に向かって叫んだ。少城の兵士たちは味方が帰還したと思い、李驤軍を城内に迎え入れた。羅尚は異変に気づいて成都太城に撤退した。 李驤は犍為に進んで羅尚の輸送路を断ち、さらに犍為郡太守襲恢を捕縛して処刑した。 12月、李雄は羅尚の守る成都太城を急襲した。輸送路が断たれていたので羅尚軍は食糧が欠乏しており、羅尚は牙門張羅特を成都太城に残して夜闇に乗じて逃走した。張羅特は城門を開いて李雄に投降したので、李雄は完全に成都を制圧した。羅尚は巴郡に移った。 304年11月、羅尚は兵を派遣して蜀の中部へ侵攻すると、李驤の妻の昝氏と子の李寿を捕らえた。
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