恩師・佐藤宣践
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1985年4月、東海大学へ進学。同大学が当時の大学柔道界で最強を誇ったことや、指導者の佐藤宣践が同じ北海道の出身だったことが、東海大学を選ぶ決め手となった。入学に際し、大学1年次の目標に“ジュニア強化選手入り”と“講道館杯出場”を掲げた越野だが、ライバルのいなかった北海道での生活とは違い、同じ軽量級に20人もいる東海大学柔道部ではレギュラーにすらなれなかった。同階級の選手にさえ全く歯が立たたず焦りを感じていた越野だったが、1年の終わりに世界ジュニア選手権の予選で準優勝をするとジュニア強化選手入りを果たし、2年次の春には念願の講道館杯出場も果たした。この頃には、軽量級には珍しい奥襟を持つ組手を佐藤より教わり、奥襟さえ持てば重量級の相手でも投げ飛ばす程に成長していた。 その後は強化ランクもCからBへ上がり、2年・3年次で正力杯を連覇したほか、3年次には講道館杯、全日本体重別選手権で決勝まで進出するなど軽量級で頭角を現し、周囲からも細川伸二の後継者として期待を集めた。当時のことを「自分が思い描いていた以上にとんとん拍子だった」と越野。この頃、佐藤より「足癖の悪さを生かせ」として、後輩の甲斐康浩と共に叩き込まれた足技の連絡技は、終生越野の持ち技となった。 大学4年次になると目標をソウルオリンピックに定めるが、選考会を兼ねた全日本選抜体重別選手権の決勝で細川に敗れオリンピック出場を逃した越野は一気に脱力し、直後の練習で右膝半月板を損傷、全治4カ月の重傷と診断される。この4カ月間のブランクの間に越野は奥襟を持つ変則柔道に限界を感じ、一つの組手から全ての技を掛けられる山下泰裕の組手を理想とした。技もそれまでの内股・大外刈等の大技中心のスタイルから、背負投をはじめとするオーソドックスな柔道へ変更。ゼミ教官の山下泰裕のもと取り組んだ自身の卒業論文『背負い投げの研究』は、現在も指導の際に活用するという。北海道の田舎侍から日本を代表する柔道家へと大きく羽ばたいた大学時代について越野は、尊敬する恩師として佐藤の名を、最も影響を受けた人物として山下の名を挙げている。また、いつも怒られていた佐藤については、尊敬すると同時に「俺ほど佐藤先生とウマが合った奴はいない」と言ってはばからない。
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