建安文学の文学者
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後漢末になると中央政府の実権は既に曹操へ移った。曹操のもとに集まったのが建安七子と呼ばれる文学者たちである。七子は孔融・陳琳・徐幹・王粲・応瑒・劉楨・阮瑀らを総称している。また魏の都の鄴に集まっていたので、鄴下の七子とも称されている。それに加えて、建安文学の擁護者であり、一流の詩人でもあった曹氏一族の曹操・曹丕・曹植の3人(三曹と呼ぶ)を同列とし、建安の三曹七子と呼称することもある。 建安の七子が宮廷において、全員揃って仕えていた期間は僅か数年しかない。建安13年(208年)に孔融は曹操に対し嘲笑する筆を振ったため、不孝の罪で殺されている。建安17年(212年)に阮瑀が亡くなる。建安22年(217年)に呉との戦いの陣中に王粲が没する。同年に徐幹・陳琳・応瑒・劉楨が一度に世を去る。 また、繁欽・路粋・何晏・応璩・蔡琰・呉質といった著名文学者たちも、この建安文学に携わり、大きく貢献した文壇の一員であるとされている。 その後、魏詩は建安体から正始体へと移り、魏末から晋初にかけて竹林の七賢が現れる。阮籍・嵆康・山濤・劉伶・阮咸・向秀・王戎を指す。後漢の乱世のなか儒教に不信を抱き、清談が行われた。
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