州昇格への歩み
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/09 07:59 UTC 版)
オクラホマ準州は1890年から1907年まで存在した。この間、7人の知事(および2人の知事代行)が準州を管理した。その17年間の間に、インディアン準州に端を発する州昇格の考え方が発展したために取り立てて大きなことは起こらなかった。知事の大半はほんの数ヶ月その職にあっただけであり、唯一長引いた課題と言えばオクラホマ大学、セントラル・オクラホマ大学(当時は準州師範学校と呼ばれた)およびオクラホマ州立大学(当時はオクラホマ農業・機械学校と呼ばれた)の創設だった。準州唯一の真の目的は自治的領域から州への移行政府として機能することだった。 インディアン準州の州昇格を確実にする運動はユーフォーラで会議を開いた1902年に始まり、文明化五部族の代表が出席した。この代表は1903年に再度集まり、憲法制定会議の招集を決めた。 セコイヤ憲法制定会議は1905年8月21日にマスコギーで開かれた。クリーク族の大酋長プレザント・ポーター将軍が会議の議長に選ばれた。選出された代議員達は文明化五部族の行政官が副議長として指名されることを決めた。チェロキー族の大酋長ウィリアム・C・ロジャーズ、チカソー族知事のダグラス・H・ジョンストンにチカソー族を代表するよう指名されたウィリアム・H・マーレイ、チョクトー族酋長のグリーン・マクカーテン、セミノール族酋長のジョン・ブラウン、およびクリーク族を代表するように選ばれたチャールズ・N・ハスケルだった(ポーター将軍が議長に選ばれた)。 この会議は憲法を起草し、政府組織の計画を書き上げ、設立させる郡をしめす地図をまとめ、また州昇格を請願するために合衆国議会に送る代議員を選出した。会議の提案はインディアン準州内で住民投票に付され、圧倒的な支持を得た。 代議員団はワシントンで冷たい対応を受けた。東部の政治家達は西部州が2つ増えることの受け入れを恐れ、疑いも無く「インディアン」の州を認めたがらず、セオドア・ルーズベルト大統領に圧力を掛けたが、ルーズベルトはインディアン準州とオクラホマ準州が1つの州としてのみ州昇格を認められると裁定を下した。 しかし、セコイヤ州憲法会議の懸命の努力は完全に失われた。翌年、インディアン準州の代表たちがガスリーでオクラホマ州憲法会議と合流した時、彼等は彼等の憲法の知識を持ってきた。セコイヤ憲法は大部分が1907年に2つの準州が合併してできるオクラホマ州の憲法の基礎となった。 準州知事フランク・フランツは準州から州への移行を監督した。フランツは初代州知事として勤めるための共和党候補に選ばれた。1907年9月17日の選挙では民主党のチャールズ・N・ハスケルと対決した。この選挙ではオクラホマ憲法も提案された。憲法は承認され、ハスケルが知事に当選した。オクラホマの人々が1907年11月16日にアメリカ合衆国憲法を採択すると、オクラホマ準州とインディアン俊秀は公式に解体され、オクラホマ州が合衆国第46番目の州として認められた。
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