島津氏の対応
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 22:40 UTC 版)
島津氏は秀頼からの書状に対し「豊臣家への奉公は一度済んだ」と返事したが、徳川方としての出陣は冬の陣・夏の陣とも結果的にかなわなかった(夏の陣では、鹿児島を発ち平戸に到着した時に大坂の役の情報を聞いて引き返している)。これは当時、薩摩藩主島津忠恒が進めていた藩政改革がうまく行かず、家臣団の統制すらままならなかったからであるが、島津の不参加は一時「島津謀反」の噂を引き起こし、小倉藩の監視を受ける羽目となった。 また薩摩の連歌師・如玄と茶人・木村宗喜が豊臣方に内通して京の放火を企てたとして幕府に捕らえられて処刑されたが、島津氏は処分されてはいない。大坂の陣以後、島津氏は藩政改革を一気に推し進めるが、島原の乱への出兵も小規模にとどまった。
※この「島津氏の対応」の解説は、「大坂の陣」の解説の一部です。
「島津氏の対応」を含む「大坂の陣」の記事については、「大坂の陣」の概要を参照ください。
- 島津氏の対応のページへのリンク