島津氏との協力と再びの対立とは? わかりやすく解説

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島津氏との協力と再びの対立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/30 01:47 UTC 版)

入来院氏」の記事における「島津氏との協力と再びの対立」の解説

戦国時代入った文明16年1484年)、日向国伊東祐国島津忠昌に対して謀反起こすと、入来院重豊祁答院重度島津忠廉と共に同調した。後に島津忠廉島津忠昌和睦する入来院氏は再び島津氏帰順した入来院重聡の代になると、島津宗家支え、忠昌の死後家督継いだ島津忠治島津忠隆島津忠兼仕えた島津勝久島津実久島津宗家の座を巡って争うようになると、実久は勝久方の入来院氏らの所領侵略するようになった。そのため島津勝久伊作家島津忠良頼って忠良嫡子・貴久を養子とした。入来院重聡伊作家劣勢状況にも関わらず忠良方に味方、重聡は娘を貴久の室とした。後に重聡の娘は名将として高名馳せる島津義久義弘・歳久を産んだ入来院氏その後島津氏勢力拡大貢献し広大な所領手に入れた入来院重朝の代になると島津貴久との間に齟齬生じ、重朝は、肝付兼演祁答院良重蒲生清ら結んで、再び島津氏対立するうになる天文18年1549年)、島津氏攻撃によって加治木城陥落し肝付氏降伏入来院氏渋谷一族島津氏降伏した。しかし天文23年1554年)、重朝は祁答院良重蒲生清らと再び反旗を翻した。重朝の従兄弟である島津義久義弘、歳久は岩剣城戦いで初陣飾った入来院氏らは蒲生城の戦い等でも敗戦重ね弘治3年1557年)に蒲生氏島津氏降伏すると、渋谷一族撤退した。 重朝の子、重嗣は同族東郷氏連携して島津氏戦ったが、永禄12年1569年)、重嗣は東郷重尚と共に島津貴久降伏した度重なる抵抗結果入来院氏本領清色以外の所領召し上げられた。

※この「島津氏との協力と再びの対立」の解説は、「入来院氏」の解説の一部です。
「島津氏との協力と再びの対立」を含む「入来院氏」の記事については、「入来院氏」の概要を参照ください。

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