岩国領の経営
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/29 04:28 UTC 版)
初代当主・広家によって岩国吉川家の基礎は固められた。しかし寛永2年(1625年)に広家が没すると、子の第2代当主・吉川広正が親政を行ない、寛永11年(1634年)には本家の長州藩主・毛利秀就と不仲になった長府藩主・秀元と共に本家から独立しようとしたが、失敗に終わった。広正は製紙業を起こし、寛永17年(1640年)には紙を専売化している。 第3代当主・吉川広嘉のとき、文化事業に尽力し延宝元年(1673年)に有名な錦帯橋が完成している。第4代当主・吉川広紀も藩営による干拓事業の拡張を行い、岩国領は全盛期を迎えた。だが、これが財政難で苦しむ本家長州藩の妬みを買い、本家と対立するようになっていった。 第5代当主・吉川広逵と第6代当主・吉川経永の時代には家格問題が絡まって本家と対立し、さらに岩国内部でも家臣団の対立が起こっている。第7代当主・吉川経倫の時代になると、正式な大名に列するための運動や凶作により財政が悪化、製紙業の生産高も半減し倹約が励行されるようになった。寛政年間(1789年 - 1801年)より財政再建に着手し、天保年間(1830年 - 1844年)には一通りの成功をみた。 第8代当主・吉川経忠は財政での改革に失敗、次の第10代当主・吉川経礼は干拓事業などを行なって財政改革に成功を収めた。
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