小堤城館
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/17 00:36 UTC 版)
明治期の地籍図、現地の聞き取り調査と遺構観察から、三重の堀・土塁(内掘・中堀・外堀)があったと推定されている。 「内掘」は寺を取り囲む方形の堀で、遺構は寺の北側(東西長90m)と西側(南北長75m)に現存。土塁の高さは約2m、幅は基底部で約7m程度。堀は空掘で開口部は約6m、深さは約2mである。伝承によれば、南側と東側にも堀があったとされ、内堀の内部は約100m四方の方形居館となっていた。 内堀の外側にも方形の「中堀」があった。遺構は寺から500mほど南に離れたところに、南側堀の一部(東西長100m)が現存。他にも、現地の聞き取り調査によれば、近年まで県道190号沿いに二重掘の形態を有する西側堀(南北長600m)があり、北側にも寺に近い内堀遺構から100mほど離れたところに北堀(東西長320m)、東側にも寺から100mほど離れたところに東掘が残されていた。 内堀と中堀間の区域は「外郭」として機能したと考えられている。寺の南東に「桝形」という小字が残されていること、また内堀のうち西側堀の試掘調査から、さらに西側に伸びる新たな堀が確認され、南北に分離された複数の郭が存在したと推定されたことによる。従って、在地領主の「居館」というよりも、内堀に囲まれた方形居館を主郭とし、その周りに複数の外郭が巡らされた「館城」と位置づけられる。戦国時代後半に、前述の古河公方重臣・野田氏が拡張・整備し、単郭の方形館から複郭の城郭に発展した可能性がある。 「外堀」の遺構としては、北側堀の一部(東西長500m)が寺から400mほど北に離れたところに現存。県道190号と交差し、県道西側は長さ440m、東側は長さ60m。形状はU字型の空掘で、開口部の幅は4.0-4.5m、底部の幅は0.5-1.0m、深さは1.3-1.7mである。明確な土塁はないが、平坦部より0.4-0.9m高い。かつては現在の遺構東端から南側に折れ130mほどがあったというが、中堀の四方を囲い込んだとみなすには情報不足であり、当時も北側堀のみだった可能性もある。
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