富山電気争議
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/17 15:26 UTC 版)
富山電気が規模を拡大して日本海電気へと発展する一方で、富山県では電気料金値下げ運動を発端とする争議、いわゆる「電気争議」が発生した。富山における電気争議は、1920年代後半の不況下で全国的に広がった同種の争議の第一号とされる。 電気料金値下げ運動の発端はそれ以前にさかのぼる可能性もあるが、直接的には1927年(昭和2年)に富山県東部の中新川郡・下新川郡で始まった運動が契機であるとみられる。まず9月、中新川郡の東水橋町と滑川町の商工会で値下げ運動が始まる。これを受けて10月から商工会の上部組織である中・下新川郡連合商工会が富山電気との間で値下げ交渉を行うが、値下げ実現には至らなかった。10月10日には、下新川郡三日市町にて町民大会が開かれ、電灯1灯につき3割5分の値下げ、定額電力料金の半減、その他付帯料金の減額・撤廃を求める宣言書を採択する。11月になると西水橋町や上新川郡東岩瀬町にも飛び火し、12月上旬にかけて東岩瀬・西水橋・東水橋・滑川・三日市の5町にはそれぞれ電気料金値下期成同盟会が結成されていった。 1927年12月16日、5町の期成同盟会により富山電気会社区域電気料金値下期成同盟連合会が結成される。連合会にはその後周辺町村も加わっていった。連合会では22日に演説会を開き、さらに富山駅から富山電気本社までデモ行進を挙行、本社で社長に値下げを直談判した後県庁で陳情活動を行った。連合会は電灯料金の3割5分の値下げ、従量電灯料金・定額電力料金の半減などを要求したが、会社側との交渉は決裂し、次の手段として料金不納運動に踏み切った。 翌1928年(昭和3年)5月1日、富山電気は料金の一部値下げを実施し、15日には料金未納者に対し17日までに納付がなければ送電を停止すると通告した。実際に17日東水橋町・西水橋町・三日市町で消灯を断行するが、内務省命令で1日で解除された。こうした事態の深刻化を受けて県当局・市町村長と地元有力者により調停委員会が組織され、7月11日に電気料金の15.25パーセント引き下げとサービス改善からなる調停案を会社側と連合会側に提示するが、双方ともこれを拒否した。そして26日には料金未納者181戸に対する断線が実施される。この会社側の措置に対抗して、東岩瀬・西水橋・東水橋・滑川・三日市の5町では全町での消灯と会社支給の電球を返還するという消灯運動が発生、その後1か月にわたり5町から電灯が姿を消した。 ところが消灯運動が長引くと連合会の足並みが乱れるようになり、8月には消灯運動からの離脱が相次いだ。8月20日、白根竹介県知事が示した9月1日からの料金値下げ(定額電灯料金10銭引き下げなど)に会社側・連合会側双方が同意。電気事業町営化を求めて活動を続けた滑川町が町営化を棚上げし9月15日に復灯したのをもって電気争議はすべて終結した。ただ同種の争議は日本各地に広がり、富山県内の他社管内にも飛び火したほか、ピーク時の1930年には38府県で162件に及ぶ値下げ運動が発生した。
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