寄席から映画館へとは? わかりやすく解説

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寄席から映画館へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 00:17 UTC 版)

西陣長久座」の記事における「寄席から映画館へ」の解説

1911年明治44年11月京都府京都市上京区西陣京極寄席長久亭として新築開館した千本通東側位置し同じく千本通東側には牧野省三経営した芝居小屋千本座(のちの千本日活館)があり、千本座とは一条通や他の商店等を隔てて南側に並ぶ形であった1912年明治45年1月10日付の『京都日出新聞』の記事によれば当時京都市内劇場寄席57館とし、警察署管轄ごとに発表しており、同館は上長者町警察署(のちの西陣警察署現在の上京警察署管轄であり、「落語」に分類されていた。同署管轄ではほかに、西陣座(浮れ節)、岩神座(新派演劇)、第二八千代館(のちの西陣八千代館活動写真)、広沢席(浮れ節)、千本座旧派演劇)、西陣電気館活動写真)、寿座(旧派演劇)、京極座(のちの西陣東映劇場新派演劇)、福廼家(のちの西陣大映浮れ節)等が挙がっている。同年1月13日付の同紙の記事によれば当時京都市は「劇場」「興行場」「寄席」の3つ分類等級分けして納税額を決めており、同館は「寄席」に分類され西陣座、広沢席、紅梅とともに「五等」とされて年額78円(当時)の税金課せられた。「寄席分類では西陣電気館が「三等」に分類されており、千本座および第二八千代館は「劇場」の「二等」、京極座は「劇場」の「三等」に分類されていた。 1925年大正14年)に発行された『日本映画年鑑 大正十三・四年』には同館は登場しないが、1927年昭和2年)に発行された『日本映画事業総覧 昭和年版』には、西陣帝国館(のちの大宮東宝映画劇場大宮寺町、経営京都土地興行)、西陣八千代館千本今出川経営・一立商店)、千本座千本一条上ル、経営京都土地興行)、西陣弥生館経営牧野省三)、堀川中央館(のちの堀川文化劇場経営寺田太郎とともに映画館長久館として掲載されており、当時の同館は、東亜キネマ興行系統経営堀川中央館および南大正館(のちの東寺劇場)を経営する寺田合名寺田太郎であった。『日本映画事業総覧 昭和年版』および『日本映画事業総覧 昭和三・四年版』には、同館の所在地が「堀川下長者町」と記載されており、『日本映画事業総覧 昭和年版』には同館にあたる映画館記載はない。

※この「寄席から映画館へ」の解説は、「西陣長久座」の解説の一部です。
「寄席から映画館へ」を含む「西陣長久座」の記事については、「西陣長久座」の概要を参照ください。

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