宮島連絡船就航前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 07:56 UTC 版)
宮島を結ぶ航路について、江戸時代から廿日市や地御前から出航する渡海船や番船が、宮島および能美島間を就航していた。 1877年(明治10年)に、当時の国道が海沿いにルート変更。そのことで参拝者が増加。翌1878年(明治11年)8月に、渡船業者の届け出が義務化された。1888年(明治21年)には業者間の申し合い規約書が定められた。 1891年(明治24年)時点で、地御前村阿品(現在の廿日市市阿品)には十数隻の渡海船が就航していた。当時の運賃は、水夫1人の場合、1人6銭・2人8銭・3人9銭。以降、乗客が1人増えるごとに1銭増加。水夫が1人増えるごとに5銭追加していた。ただ、業者間の競争により、申し合いは余り守られていなかった。 1894年(明治27年)に、再度申し合い規約書が同業者一同78人で記名調印した。同年には宮内村(現在の廿日市市宮内)にも業者が存在していた。 同年には、広島市西本川(現在の広島市中区中島町)の汽船問屋、石井久平が小型の蒸気船長安丸を購入。宇品・廿日市・宮島・呉間に就航した。1896年(明治29年)8月に寄港が途絶気味になり、廃止になった模様である。
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