宋の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/10/11 00:49 UTC 版)
宋にも棋待詔の制度は引き継がれ、賣充、楊希粲、「棋訣」の作者劉仲甫、「忘憂清楽集」を編した李逸民、沈才子などがいた。宋代には囲碁に関する著作も多く書かれ、囲碁のレベルは大きく向上した。北宋の太宗は自分で詰碁を作るほどの囲碁好きで、作品は「忘憂清楽集」にも収められている。太宗は棋待詔の賣玄(賣元)には三目を置いて打ったが、賣玄は常に1目負にしていた。太宗は賣玄に今度負けたら鞭で打つと言ったところ、賣玄はジゴ(引き分け)にした。そこで太宗は、賣玄が勝てば緋衣を与え、勝てなければ池に投げ込むと言った。すると今度もジゴになったが、賣玄を池に投げ込ませようとすると、賣玄は手にアゲハマが残っているのを見せたという話が「湘山野録」に記されている。 他にも太祖に仕えた官僚の宋白は囲碁論「奕棋序」を著し、仁宗に仕えた張擬は「棋経」(棋経十三篇)を著した。南唐の高官であった潘慎修は宋に仕え、囲碁観をまとめた「棋説」を太祖に献上し、この中の「十要」(仁、全、義、守、礼、変、智、兼、信、克)が後の「囲碁十訣」であるとも言われる。同じく南唐出身の徐鉉は、碁盤上の点の呼び方に、一から十九までの線を用いるようにし、また囲碁術語の解説書「囲棋義例詮釈」を著したとも言われる。南宋の孝宗は女性と碁を打つのが好きで、女性の打ち手も増え、囲碁で客の相手をする棋妓も現れた。南宋末期には「玄玄棋経」が晏天章と厳徳甫によって著された。
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