孔子死後の魯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 13:18 UTC 版)
孔子の死後、前471年に哀公は晋と同じく斉へ指揮官として進軍する。さらに前468年に三桓氏の武力討伐を試みるも三桓氏に屈し、衛や鄒を転々とした後に越へ国外追放され、前467年にその地で没した。 孔鯉の息子で孔子の孫である子思(紀元前483年?-紀元前402年?)は幼くして父と祖父を失ったため孔子との面識はわずかだが、曾子の教えを受け儒家となり、魯の第30代君主穆公(? - 紀元前383年)に仕えた。穆公は在位期間中に改革を実行し、哀公・悼公・元公の3代(27代~29代)にわたる三桓氏の専制の問題から脱却し、魯公室の権威を確立して、隣国の斉とのあいだで数度の戦争を展開した。孟子は子思の学派から儒学を学んでいる。 のち、国としての魯は衰退し、紀元前249年に楚に併合され、滅亡した。
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