太平天国の建国
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道光30年12月10日(1851年1月11日)、洪秀全は起義を宣言して清朝に反旗を翻し、天王を称して太平天国を建国した。咸豊2年(1852年)、太平軍は広西から湖南へと進出、咸豊3年(1853年)には南京を占拠、天京と改称し太平天国の首都に定めた。太平天国前期では軍事関係は全て軍師により指揮され、洪秀全は軍事行動と距離を置いて朝政を司っており、その大権は東王楊秀清によっていた。 天京に首都を定めた後、洪秀全は四書五経を禁書としようとしたが楊秀清はこれを拒否、結局禁書指定は行われなかったが、この事件をきっかけに洪秀全と楊秀清の溝が深まることとなった。洪秀全は同じく楊秀清に不満を募らせている北王韋昌輝・翼王石達開・燕王秦日綱と協力し、咸豊6年(1856年)に3人に対し楊秀清誅殺の密詔を出し、9月には天京事変が発生、楊秀清・韋昌輝・秦日綱が粛清された。事件後は翼王である石達開が実権を掌握したが、洪秀全は兄である洪仁発・洪仁達をそれぞれ安王と福王に封じて重用し石達開を牽制、結果石達開の不満を引き起こし、石達開は大軍を率いて洪秀全の指揮を離脱した。一連の政変で太平天国の実権を掌握した洪秀全であるが、これ以降太平天国の勢力は急速に衰えていく。なお安王と福王は見識も才能もなく、はなはだ評判が悪かったこともあり1859年に王号を剥奪されている。
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