太平天国を国号に定める
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/29 05:09 UTC 版)
「太平天国の乱」の記事における「太平天国を国号に定める」の解説
1851年1月11日(道光30年12月10日)、金田村において拝上帝会は国号を太平天国とし、洪秀全は自身を天王と称したという。しかし、いつから太平天国を称したかは諸説あって明らかではない。正式に定められたのは、しばらく後の3月23日(道光31年2月21日)であって、この日を登極節という。国号を定めたことで清朝に公然と反旗を翻した太平天国だが、南京に留まるまでは各地を転々と移動し、その意味では流賊的であった。太平天国軍の進路は以下のようなものであった。まず金田村から藤県を経て永安(現在の広西壮族自治区蒙山県)を落とした。藤県では、後述する後期太平天国を担う名将たちが参加している。永安に半年の間滞在した太平天国は、ここで官制や官爵などを決め、国の体裁を整えた。 この時に天王の下の五幹部、 中軍主将「東王」楊秀清 前軍主将「西王」蕭朝貴 後軍主将「南王」馮雲山 右軍主将「北王」韋昌輝 左軍主将「翼王」石達開 を決定した。この内、楊秀清は天父下凡(てんふかぼん)、蕭朝貴は天兄下凡(てんけいかぼん)と称しそれぞれヤハウェとキリストの託宣を受けられると言い、それを借りて自らの命令を通していたので次第に洪秀全の発言力は減っていった。
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