大正6年の巡回伝道と神癒
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/30 21:57 UTC 版)
「中田重治」の記事における「大正6年の巡回伝道と神癒」の解説
1917年(大正6年)1月中旬より長野県上諏訪町の甲信修養会に出席して、2月19日よりは、飯田修養会に行く。4月は御牧碩太郎と共に、また4月11日より甲府の日本基督教会の山梨修養会では金井為一郎と共に説教した。4月25日より29日まで小石川指ヶ谷福音教会の伝道会を応援した後に、岩手県土沢に行き、小原十三司に会った。 5月15日からは、名古屋、御影[要曖昧さ回避]、岡山、呉、下関に巡回した。その後、6月に阪神修養会で説教し、7月は岡山県河内村[要曖昧さ回避]の作西修養会で説教した。また、8月3日より、箱根の修養会でバックストンらと説教をし、松島修養会に行こうとしたが、肋間神経痛のために8月12日頃帰京して静養した。病を押して、13日からの浅草会館開館満三年記念会ではあやめと共に出席して説教した。 その後、塩原温泉の神谷旅館でしばらく静養した。その時に「主は近し」という再臨論の原稿を書き、ウィリアム・ブラックストンの「イエスは来る」という研究書の翻訳を行った。これが、後にプロテスタントのキリスト教界全体を巻き込んだ再臨運動へとつながっていった。 1917年9月に帰京して日本メソジスト教会の本郷中央教会牧師小沢勝之助の葬儀に出席してピリピ書から説教した。そして、9月21日の焔の舌には、病気が癒された謝告を出した。
※この「大正6年の巡回伝道と神癒」の解説は、「中田重治」の解説の一部です。
「大正6年の巡回伝道と神癒」を含む「中田重治」の記事については、「中田重治」の概要を参照ください。
- 大正6年の巡回伝道と神癒のページへのリンク