大楽源太郎隠匿
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明治3年(1870年)の初め頃、応変隊と七生隊の有志が小河・古松を盟主として反政府活動を始める。4月5日、古松を頼って長州から脱走した大楽源太郎が筑後国に入ると、これを保護した。大楽は小河に「山口藩恢復」援助を依頼した。長州藩からの追っ手が掛かった大楽は柳川に逃亡、11月、大楽は小河を上妻郡尾島(現筑後市尾島)に招き、同志の保護・隠匿を求めた。 明治4年(1871年)2月13日、久留米城下の医者・宮川宅に集まり、小河と寺崎三矢吉、大楽源太郎、京都から来た立石正介で密議を行い、「京都同志が青蓮院宮を奉じて久留米に下向して義兵を挙げ、西洋心酔の政府を倒壊せんと決議せり」とした。 2月22日、古松簡二が弾正台の尋問を受け東京に移送された。3月10日、藩主・有馬頼咸が拘禁され弾正台で取り調べを受ける。東京の藩邸より本庄一行と林田瀬兵衛が急使として帰藩、大参事水野と小河の責任を追及した。3月13日、水野と小河は反政府の首魁として逮捕された。久留米藩は政府が派遣した他藩の兵が進駐して戒厳令下におかれ、反乱分子の追求・逮捕が行われた。 12月3日、判決が下され、小河は反乱事件の首魁者として斬首となった。享年25。 処刑を前に「私儀、元来方向を誤り、一時に暴挙すべく相企て候段、申しわくなく恐れ入り候」と述べている。
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