夏成立後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/21 18:11 UTC 版)
この時、勃勃が建てた夏の支配領域はオルドスと高平付近である。北魏や南涼などの強国とも隣接していたが、特に後秦からの攻撃を避けるために、勃勃は本拠地を定めずに騎馬での遊撃を主な活動としていた。領土の拡大には南方の農耕地帯(隴東・隴西・関中など)を求めたため、特に後秦を騎馬で襲ってその国力を疲弊させた。 407年、勃勃は南涼の禿髪傉檀の娘に求婚したが、禿髪傉檀は断った。怒った勃勃は南涼を掠奪しながら攻撃し、その際に一旦退却して禿髪傉檀に追撃させておびき寄せてから陽武下峡に閉じ込めて大破した(陽武の戦い)。南涼の被害は酷く、名臣や勇將の死者は6・7割あったという。 408年、後秦の姚興が将の斉難を遣わして勃勃を攻撃させた。ここでも一旦恐れたと見せかけて退却してから逆撃し、斉難を捕らえた(青石原の戦い)。この戦いでオルドスを手に入れた。 409年、勃勃が度々辺境を侵して掠奪するので姚興は親征したが、大敗した。その後も盛んに南下して後秦を攻めたが、オルドス南境にある杏城・安定を陥せず417年まで膠着状態が続いた。この時、後秦の鎮北将軍の王買徳が勃勃に降った。 412年、西秦と盟を結んでいたにも関わらず、乞伏乾帰がクーデターによって殺されたことに乗じて攻め込もうと考えたが、王買徳に反対された。
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