堂島・梅田時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 23:16 UTC 版)
「大阪府立大手前高等学校」の記事における「堂島・梅田時代」の解説
創立以来中之島の校舎を使用していたが、校地が狭いことがかねてから問題となっていた。当時堂島にあった堂島中学校(現在の北野高等学校)が北野に移転することになったため、跡地を転用して仮校舎とする形で堂島に移転することになった。 1902年には大阪市北区堂島浜通3丁目2番地へ移転し、大阪府立堂島高等女学校へと改称した。 堂島の校舎は老朽化していたため梅田に移転することが決まり、1909年度より移転予定地で校舎新築工事がおこなわれた。その矢先の1909年7月29日には大阪市街地を襲った大火災(北の大火)で一部校舎を焼失した。授業は焼け残った校舎と江戸堀小学校の2ヶ所を使用して実施された。 また校舎火災被害のため、校舎新築工事は急ピッチでおこなわれ、火災翌年の1910年4月には大阪駅北側・大阪市北区北梅田町(現在の大阪市北区大深町)に移転した。梅田への移転と同時に、大阪府立梅田高等女学校へと改称している。 なお移転先の隣には、堂島(梅田)高等女学校同窓会「金蘭会」が運営する金蘭会高等女学校(現在の金蘭会中学校・高等学校)があり、遠足や運動会などを合同で実施するなど協力関係にあった。 しかし梅田の敷地は大阪駅(梅田貨物駅)拡張予定地となり、立ち退きを迫られることになった。学校側は1920年以降、北野の北野中学校敷地、十三などを移転候補地として検討し、関係者の検討の結果十三への移転を希望した。 一方で大阪府は大阪市東区大手前之町(現在の大阪市中央区大手前)の輜重兵第4大隊兵舎跡地を買収し、一画を梅田高等女学校の移転用地として充てることを決定した。1922年に大阪府会で建築案が可決され、校舎建設工事がおこなわれた。なお、このとき見送られた十三の地へは後年北野中学校が移転している。
※この「堂島・梅田時代」の解説は、「大阪府立大手前高等学校」の解説の一部です。
「堂島・梅田時代」を含む「大阪府立大手前高等学校」の記事については、「大阪府立大手前高等学校」の概要を参照ください。
- 堂島・梅田時代のページへのリンク