在スイス公使とは? わかりやすく解説

在スイス公使

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/10 16:13 UTC 版)

エイブラハム・スタンヤン」の記事における「在スイス公使」の解説

パリ離れた後はしばらく官職につかなかったが、1705年5月に在スイスイングランド特命全権公使英語版)に任命された。1705年スペイン継承戦争最中であり、スタンヤンは赴任にあたりイタリアにおける同盟軍向けの為替手形持っていったほか、フランススイスにおける影響力削ぐという任務にもついており、同盟軍スイス通過する許可勝ち取る必要もあった。スイス到着してすぐはチューリッヒ滞在したが、すぐにベルン移った1707年6月16日ヌーシャテル侯爵マリー・ド・ヌムール英語版)が死去すると、ヌーシャテル侯領の継承主張する人物大勢現れた(少なくとも13人はいたという)。フランスの影響増大恐れるスタンヤンはヌーシャテル急行、そこで在スイスオランダ公使ルンケル(Runckel)とともにプロイセン王フリードリヒ1世による継承主張したフランス王ルイ14世1万2千人軍勢ヌーシャテル侯領との国境配置して圧力をかけたが、スタンヤンは1708年1月バーデン集まったプロテスタントカントン対し全てのカントン侵攻される恐れがある」と主張ベルン州全軍ヌーシャテルを守ると表明する至りフランス大使ピュイジユー(Puisieulx)が敗北するとなった。 スタンヤンは1709年2月一時帰国したが、すぐにスイス戻り1710年2月サヴォイア公国への秘密任務命じられた。同年ベルン州から15ポンド借款交渉成功1711年3月に在プロイセン王国特命公使への転任決定されたが、北部担当国務大臣ヘンリー・シンジョンの説得にもかかわらずアン女王はスタンヤンの任命拒否したため、スタンヤンは在スイス公使に留任した1712年から1713年まで神聖ローマ皇帝カール6世サヴォイア公ヴィットーリオ・アメデーオ2世調停役を務めミラノ2人ユトレヒト条約案の内容に従うよう同意させた。 ユトレヒト条約1713年締結された後、スタンヤンは帰国して翌年スイスでの見聞についてAn Account of Switzerland written in the year 1714(ロンドン八折り判1714年)を出版した。この著作1世代後の第4代チェスターフィールド伯爵フィリップ・スタンホープや18世紀末から19世紀初にかけての歴史学者ウィリアム・コックス(英語版)も参考にしたという。

※この「在スイス公使」の解説は、「エイブラハム・スタンヤン」の解説の一部です。
「在スイス公使」を含む「エイブラハム・スタンヤン」の記事については、「エイブラハム・スタンヤン」の概要を参照ください。

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