在スイス公使
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「エイブラハム・スタンヤン」の記事における「在スイス公使」の解説
パリを離れた後はしばらく官職につかなかったが、1705年5月に在スイスイングランド特命全権公使(英語版)に任命された。1705年はスペイン継承戦争の最中であり、スタンヤンは赴任にあたりイタリアにおける同盟軍向けの為替手形を持っていったほか、フランスのスイスにおける影響力を削ぐという任務にもついており、同盟軍がスイスを通過する許可を勝ち取る必要もあった。スイスに到着してすぐはチューリッヒに滞在したが、すぐにベルンに移った。 1707年6月16日にヌーシャテル女侯爵マリー・ド・ヌムール(英語版)が死去すると、ヌーシャテル侯領の継承を主張する人物が大勢現れた(少なくとも13人はいたという)。フランスの影響力増大を恐れるスタンヤンはヌーシャテルに急行、そこで在スイスオランダ公使ルンケル(Runckel)とともにプロイセン王フリードリヒ1世による継承を主張した。フランス王ルイ14世は1万2千人の軍勢をヌーシャテル侯領との国境に配置して圧力をかけたが、スタンヤンは1708年1月にバーデンに集まったプロテスタント側カントンに対し「全てのカントンが侵攻される恐れがある」と主張、ベルン州が全軍でヌーシャテルを守ると表明するに至り、フランス大使ピュイジユー(Puisieulx)が敗北する形となった。 スタンヤンは1709年2月に一時帰国したが、すぐにスイスに戻り、1710年2月にサヴォイア公国への秘密任務を命じられた。同年にベルン州から15万ポンドの借款交渉に成功、1711年3月に在プロイセン王国特命公使への転任が決定されたが、北部担当国務大臣ヘンリー・シンジョンの説得にもかかわらずアン女王はスタンヤンの任命を拒否したため、スタンヤンは在スイス公使に留任した。1712年から1713年まで神聖ローマ皇帝カール6世とサヴォイア公ヴィットーリオ・アメデーオ2世の調停役を務め、ミラノで2人にユトレヒト条約案の内容に従うよう同意させた。 ユトレヒト条約が1713年に締結された後、スタンヤンは帰国して、翌年にスイスでの見聞についてAn Account of Switzerland written in the year 1714(ロンドン、八折り判、1714年)を出版した。この著作は1世代後の第4代チェスターフィールド伯爵フィリップ・スタンホープや18世紀末から19世紀初にかけての歴史学者ウィリアム・コックス(英語版)も参考にしたという。
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