園部城時代
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西部の小麦山の山頂には三層の小麦山櫓が建っていた。計画時には櫓門を3ヵ所と本丸の4ヵ所を含む9ヵ所の櫓が建設予定であったが、最終的には櫓門3ヵ所と本丸の巽櫓、太鼓櫓、巣鴨櫓、乾櫓の4ヵ所と小麦山櫓を含む計5ヵ所の櫓が建てられた。現存しているのは、巽櫓、城門の櫓門(高校の校門)、番所、太鼓櫓(八木町の安楽寺に移築)や、石垣の一部や堀も埋め戻され幅も狭くなった部分もあるのがその痕跡をとどめている。外堀は小麦山を囲んで2kmもあった。 園部城の本丸は南北に長く、長方形に多くの屈曲をつけた形状であった。1869年(明治2年)に新築完成した日本の城郭史の中で最期の建築物となる。二重櫓、番所、櫓門、付属の土壁は一直線上に並び現存している。二重櫓は、本丸の南東にあり、南東を表す巽櫓と呼ばれている。本丸には4つの二重櫓が建っていたが巽櫓が最大の櫓で園部城の象徴でもあった。巽櫓以外の櫓や城門は1872年(明治5年)入札によって払下げたのちに、破却もしくは城外に移築している。 巽櫓の内部は半間の武者走りが四周に取り、その内側が1室となっている。巽櫓のような中規模の櫓で武者走りを持つような例は少なく、立派な造りになっている。巽櫓は、1階の東と南面に大きな出窓を設けている。巽櫓のような中規模の櫓は一間ほどが普通で、出窓は大き過ぎると言える。櫓の出窓は軍事的に重要な設備で、出窓の側面に狭間を設けて城壁に近づく敵兵に横矢を加える。また出窓は下方の石垣に張り出す仕組みとなっていて、櫓の直下に近づいた敵に対して石落としで撃退する。しかし巽櫓は、石垣上に十分張り出しておらず、単なる飾りにしかならない。また巽櫓は軒の出が長いことも特徴である。城郭らしくなく寺社建築のようでもある。また櫓門も城郭としては変わった特徴がある。二階の梁が頭をぶつけるほど低く、鉄砲や弓を自由に扱えず、格子の下の壁も低すぎて敵からの銃弾も防げない。これ以外にも変わった特徴として、正方形の大型の狭間が正面の格子窓の両脇、側面、背面にも設けられている。これは窓としては小さく格子も無い、鉄砲狭間としては大きく、大砲を撃つ特別な狭間のようにも見える。また一般的な櫓門に比べて整った外観になっている。巽櫓や城門は城郭としては変わった特徴が数多くみられ、城の建築物でありながら寺社的な建築様式がみられる。この建築に携わった大工やそれを指導した園部藩が城郭に十分な心得が無かったものと思われている。
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