国勝の死 吉友へバトンタッチ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 00:45 UTC 版)
「忠実屋」の記事における「国勝の死 吉友へバトンタッチ」の解説
1943年10月に国勝が肺結核で「これまでご苦労だった」と夏子に遺言を残して死去、1945年8月15日の終戦をもって夏子は忠実屋を再開させ、八王子空襲で焼け野原と化した八王子市八幡町の映画館跡地に10坪の商店を建設した。 一方、後に養子として迎えられることとなる伊藤吉友(以下:高木吉友または吉友)は生粋の八王子出身で、戦時中は明治大学在学中であったが、1944年12月25日に赤紙が届いて静岡のはやぶさ36連隊に入隊。満州等に出兵したが終戦で日本へ帰国し、友人とともに八王子でコンニャク屋を始めた。これが地元で瞬く間に評判となり夏子の耳にも入ってくるようになった。夏子はコンニャク屋で吉友と接することが多くなり養子として欲しいと思うようになった。こうして1947年に吉友は高木家に養子として迎え入れられ、さらに養女として後に吉友と結婚することとなる、夏子の末子の妹であったシン子を受け入れた。 なお、一部雑誌や報道等で吉友が創業者として紹介されることがあるが、厳密には国勝が商店としての忠実屋の創業者で、吉友は会社としての忠実屋の創業者である。 以降は有限会社を設立し、スーパーマーケットとしてチェーン路線に進み、首都圏全域で店舗を展開した。スーパー事業以外にも不動産・旅行代理店・家電量販店等の事業にも乗り出した。さらには外国への進出も行い、忠実屋はすさまじい勢いで成長していく。 国勝と妻の夏子はクリスチャンであったことはすでに述べたが、吉友と妻のシン子は日本ホーリネス教団八王子キリスト教会の信徒であり、忠実屋創業の地である八幡町は、同教会の牧師を務めた松木祐三が福音伝道を始めた地でもあった。
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