国内獄外グループによる連合赤軍結成
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「共産主義者同盟赤軍派」の記事における「国内獄外グループによる連合赤軍結成」の解説
詳細は「連合赤軍」を参照 一方、国内に残った赤軍派の獄外メンバーは、それまでの指導部がすべて獄中にあるため独自の動きが困難になっていたが、大菩薩峠事件以降の大量逮捕などの事情から塩見の呼びかけで復帰して「M作戦」(活動資金獲得のための金融機関襲撃)の指揮をとっていた中堅の森恒夫が獄外メンバーの指導的地位を掌握する。 1970年末、森を獄外最高指導者とする赤軍派は日本共産党(革命左派)神奈川県委員会との提携を始めた。赤軍派と革命左派は本来、基本的にイデオロギー上にかなり違いがあり、革命左派は「銃のみが政権を生み出す」をスローガンに武装闘争を行っていた毛沢東主義の小党派であった。当初は、革命左派が以前に武器奪取を目的とした上赤塚交番襲撃事件で射殺された柴野春彦の追悼集会を合同で開いたり、革命左派が真岡銃砲店襲撃事件で強奪した武器を赤軍派に「援助」し、赤軍派がM作戦で得た資金を革命左派に「援助」するといった、あくまで別の組織としての提携活動であった。1971年7月、両党派の軍事部門を統合した「連合赤軍」を結成、同年12月、遂に両組織主流派幹部は統合し、連合赤軍中央委員会を名のった。 前身が共に追われる身の武闘派から成る連合赤軍は、活動拠点を山中のキャンプに移していった。しかし、12人の同志を殺害する山岳ベース事件で組織が弱体化し、あさま山荘事件(1972年)で抵抗を試みるも、主力部隊は逮捕され壊滅した。なお、キャンプに参加しなかった者や獄中に在った者の一部は国外に逃れ、日本赤軍に参加する。
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