かき‐もんいん〔‐モンヰン〕【嘉喜門院】
嘉喜門院
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嘉喜門院(かきもんいん、生没年不詳)は、南北朝時代の女院・歌人。
- ^ 『南朝編年記略』によれば、興国7年(1346年)2月従三位に叙されて女御となり、正平21年(1366年)1月皇后に転上。天皇崩御後の正平25年(1370年)3月皇太后となり、文中2年(1373年)11月1日院号宣下を受け、文中4年(1375年)3月落飾したという。ただし、『七巻冊子』は院号宣下を正平24年(1369年)12月11日とする。
- ^ 『新葉集』雑下・1290詞書に「嘉喜門院御かざりおろさせ給て後は御琴なども打捨られて」とある。一般に琵琶の名手とするのは、『嘉喜門院集』詞書の誤読による。
- ^ 安井久善 「『嘉喜門院集』付載『詠三十首和歌』について」(『語文』第42輯 日本大学国文学会、1976年、NCID AN00093257)
- ^ この他に坊門経忠説を挙げている書籍もあるが、このような名の人物は実在しない。おそらく近衛経忠を誤認したものであろう。
- ^ 『大日本史』巻85(列伝12后妃)は、「福恩寺前関白内大臣」が「禁中月」の題で詠んだ歌(雑上・1095)について、嘉喜門院が后(中宮)に昇格することを期待する意であると解釈し、このことから「福恩寺関白」を嘉喜門院の父と推定するが、それが誰なのかは未知であり、立后のことに関しても諸書に見えないと述べている。
- ^ 「福恩寺関白」を二条教基に比定した八代説に対し、師基の方が妥当とする小木喬の修正説もある。この場合、嘉喜門院は「福恩寺関白」の猶子となる。
- ^ 村田 「後亀山天皇の御事蹟」(『村田正志著作集 第1巻 増補南北朝史論』 思文閣出版、1983年、NCID BN02781146。初出は1946年)
- ^ 『大日本史』巻71、『纂輯御系図』、笹川臨風『南朝五十七年史』(新潮社、1911年)参照。
- ^ 塙保己一 『花咲松』参照。ただし塙は、後亀山を兄、長慶を弟と主張していた。
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